ご懐妊!! 第6話 六ヵ月

OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!

妊娠六ヵ月(二十~二十三週目)
胎児(二十三週末)…三十センチメートル、六百グラム
子宮の大きさ…二十センチ前後

 

「どうだい?順調かな?」

午前中のオフィスでのことだ。デスクの間を闊歩していた私は、声のほうに振り向いた。

「社長!」

私に声をかけてきたのは、我がアプローズ株式会社の社長、外丸了司その人だ。

五十代後半で白髪の交じり始めた短髪にスラリとした体躯。見た目は紳士然としているけど、瞳の奥のぎらっとする輝きは、さすが一国一城の主って感じ。

外丸社長が一代でこの会社を興したのは、まだほんの十年ちょっと前の話だ。小さくとも頼りにされる広告代理店に成長させたのは、彼の手腕に他ならない。

ちなみにうちの旦那様、一色褝大部長殿は、この会社の創業メンバー。なんでも、インターンシップをしている大学生のときに、社長にスカウトされたらしい。

「そろそろ、お腹が膨らんできたような気がするね」

社長は遠慮がちに、でも嬉しそうに私のお腹を見つめる。

部長いわく『親代わり』だというこの人。もしや、孫が産まれるような気分なのかな?社長は独身だ。

「おかげさまで六ヵ月に入りました。お腹も少しだけ出てきましたよ!」

私が下っ腹をポコンと叩くと、社長が苦笑いした。

「こらこら……。でも、本当に出てきたね。ウエストがきつそうだ」

「持ってるパンツの中で一番緩いのをはいたんですけど、パンパンですよね。近々、友人とマタニティウェアを買いに行く予定なんです」

社長が我がことのように微笑んだ。

「そうか、そうか。ああ、そういえば佐波くん、今月末の出張は悪いね、ゼンを連れてってしまって」

「いえいえ、大丈夫です」

今月末は二週間の海外出張。社長が部長を連れて、またしてもシンガポールだ。

「安定期ですし、私も体調がいいので、安心して行ってらしてください」

「なにかあったら、すぐゼンに連絡するんだよ。無理は禁物だからね」

社長は、本当におじいちゃんみたい。

式の仕度以外は、たぶん困ることなんかないとは思うけど、ありがたい話だ。

 

その週末、私はマタニティビクスのあとに、美保子さんとショッピングに出かけていた。少しずつ膨らみだしたお腹のために、マタニティウェアを買うことにしたのだ。

しかし、最近のマタニティウェアって可愛いよね。私のイメージだと、タートルネックにジャンパースカートだったよ。古い……。

今日ゲットした品は、チュニックやレギンスなど八点。授乳口付きなら産後も使えるし、割とお得な買い物だと思う。

帰る前に、お茶で休憩することにした。ビクスはやっているし、お腹もそれほど大きいわけじゃないけど、やっぱり疲れやすい。

「佐波さん、胎動はあった?」

美保子さんがカフェラテで手を温めながら尋ねる。

「よくわからないんだぁ。美保子さんは、いつ初胎動があった?」

「私は待ちわびて過敏になってたわ。十九週くらいから、お腹の中で空気が移動する感じが始まって、二十週の終わりにポコンって内側から振動があったの」

おお!まさに胎動!って、待てよ?

「美保子さん、空気が移動する感じって、腸をガスがぐるぐる動くのに似てる?」

私は声をひそめて聞く。

「ええ、そんな感じ。最初はお腹を壊しちゃったのかと思った」

「それ!私もときどきある!」

思わず大声で言ったその瞬間、下腹部にドッと、ごくごく軽い振動。

もしかして、今のって。

「……動いた?」

美保子さんが見つめてくる。

「そんな気もする……ああっ、でも胎動の話をしてたから、自意識過剰になってるのかもっ!」

「でも!胎動の始まりみたいなのは感じてるんだし、いつ動いても変ではないわ!」

彼女が慌ててフォローする。

「自信ない……。ポンちゃん、試しにもう一回動いてみてくれ~」

しかし、ポンちゃんがそれ以上、反応してくれることはなかった。

 

こうしちゃおれん!と勢い込んで帰宅した私は、ソファでくつろぎタイムの部長にひとこと。

「動いたかもしれません」

「なに?」

意味はすぐに伝わったらしい。部長は手にしていた経営情報誌を、テーブルの雑誌束の上に置いた。その束に『エッグ倶楽部』が含まれていることを私は知っている。

「こっち、来い」

私は言われるままソファにパタパタ歩み寄り、部長の右隣に座る。彼が半身向き合うかたちになり、左手を無造作に私の下腹部に置いた。

「ぎゃ!」

「なんだ?どうした?」

「急に触るから……」

「触らなきゃ、わからないだろう!」

部長が怒った。

だって、だって近いんだもん。手とかじゃないし、お腹だし。こんな無造作な接触、たぶんエッチしたとき以来だ。

私がドキドキしているせいか、ポンちゃんにその気がないのか、またもお腹は動かない。や……やっぱり勘違いだったのかなぁ。

「動かないな」

部長が言い、手を放した瞬間だ。ドッ、というあの感覚!

「ぶぶぶぶ、部長!やっぱ今動いたっ!」

「なにぃ!」

彼が再びお腹に手を当てる。しかし、ポンちゃんはもう動かない。

「おい!ポン、動いてみろ!」

部長がついに、お腹に向かって呼びかけ始めた。しかし、ポンちゃんはどうしても動かない。なんて間の悪いやつなんだ!

「佐波」

お、名前呼び。私が顔を上げたところ、真顔の彼がそこにいた。

「ぎゃあぎゃあ言うなよ」

言うなり部長が再接近し、右の耳を私のお腹に当てた。

うわぁぁぁぁぁっ!!なに、くっついてんの!!

「ポン!ポン!おまえの父だぞ!動いてみせろ!」

膝枕に似た姿勢。めちゃくちゃ間近に感じる部長の体温。

彼の邪気のないスキンシップが、ポンちゃんとの触れ合いなのはわかる!だけど、私は免疫がないのよ!!

部長と暮らしだして二ヵ月。私が平気でいられるのは、毎日会社で顔を合わせていた人だから。いろいろ一緒に行動もしているし、恐怖感はなくなったけど、いわば、この人との生活は部活仲間との合宿的なもんなのよ!同志というか、同じ釜の飯仲間というか!だから、接触はビビッちゃうんだってば!

と同時に、私の中にある確かな感覚。ドキドキして、そわそわして、嫌じゃなくて、嬉しい戸惑いで……。まるで、まるで……初恋……。

大人になってからの恋って、友達の紹介だったりとか、なんとなく好きかなあって思ったら告られたりとか、つまりはドキドキそわそわとは無縁だった。

だけど今、部長とくっついていて感じるのは、えーと、えーと……。

たとえるなら、中学二年のとき、文化祭の準備で遅くなって、憧れていたクラスメートの石井くんが『送るよ』って言ってくれたときのトキメキに似ている!

私が混乱して思考を巡らせまくっていると、部長が私のお腹から顔を離した。

「ダメだ。動かない」

「まだやっと二回ですし、もし動いてても、外からじゃわからないかもしれないです。すみません、報告を早まりました」

「いや、動いた報告は嬉しかった。ポンは大きくなってるんだな」

彼がゆるゆると微笑む。

その優しい瞳。ううっ、なぜか心臓がはち切れそう。

一緒に住んでいるんだ。部長がガーガー寝ているのも見ています。お風呂上がりにパンツ一丁でパジャマを探しているのも見ています。

だけど、その笑顔は反則。

ポンちゃんに向けられているって知っているけど……心がぐらぐら揺れてしまう。

 

胎動騒ぎから数日。

その日、私は美保子さんとマタニティビクスのあと、夕飯を食べて帰った。彼女のご主人は出張。うちの主人は接待飲みで遅くなる。

妊婦だし、近所のトラットリアだったので、それほど遅くならず帰宅したんだけど、部屋に灯りがついているのが見えた。

あれ?部長、先に帰っている?

部屋に入ると、ダイニングテーブルで彼が突っ伏して寝ている。手元には大好きなウィスキーとグラス。溶けかけた氷。

ははぁ。接待飲みのスタートが早かったから、飲み足りなくて帰宅後ひとり飲みですか。酒好きあるあるだわ。

「部長、風邪ひくんで、寝るならベッドに行ってください」

私は向かいの席に座って、頬をテーブルにくっつけた。突っ伏した部長の顔を覗き込む。

「起きてくださいってば」

彼がモゾモゾと肩を動かし、顔を上げた。といっても、身体を起こしたわけじゃない。顎をどすんとテーブルに載せただけ。

「……ポンは……今日は動いたか?」

起き抜け第一声が、それですか。

「お昼前に一回、ビクスのあとに一回ですかね?私が気づいた範囲では」

「そうか……」

部長はまた、むにゃむにゃ言いだす。

結構飲んでいるみたい。ちょうどいいや、今なら普段できない話もできそう。

私は頬杖をつき、ずいっと顔を近づける。

「部長は私と結婚しちゃって、よかったんですか?」

「はぁ?」

「泣かせた女の二、三人、いたんじゃないのかなって」

「……意味が……わからん」

「付き合ってた人は、いなかったんですか?って話!」

焦れて声を張る。部長は酔眼をさまよわせてから、へへへと、らしくなく笑った。

「付き合ってる女なんて……三十代になってから、いねー……っての」

「え!じゃあ三年も彼女なしだったの?」

「……なめんなよ。物心ついてから、させてくれる女に不自由した覚えは一度もない」

……さようでございますか。このイケメン大部長殿め!モテ自慢かコノヤロー!

「じゃあ、わざと彼女を作らなかったわけだ。……なんでですか?」

「俺は……ダメ男だからな」

おっと、今度は自己否定……。酔っぱらいは忙しい。

「俺は……仕事で結果を出すのが、すべてだった。自分の価値を上げるために……。二十代は仕事を優先してるうちに、付き合った女みんなに愛想を尽かされた」

「確かに部長、仕事しすぎですもん。女の子には怖いんですよ」

相手が酔っぱらいなので、私も言いたい放題だ。

「本当は……不安なんだ……」

部長は右頬をテーブルに倒した。左手で溶けた氷入りのグラスをもてあそぶ。

「仕事以外に気を回せるようになるまで……彼女は作らないつもりでいた。なのに彼女どころか……女房と子どもができちまった。俺はなんにも変わってないのに……」

「部長……」

「おまえやポンにも……愛想を尽かされる日が来るかもしれない。だから……」

そこまで言って、次の言葉はなかった。顔を覗くと、部長はぐーぴーいびきをかいて眠っていた。

「おいおい、酔っぱらい……」

私はもう一度、酔いどれ部長を起こそうと立ち上がった。テーブルを回り込んで肩を叩こうとして、一瞬思いとどまる。

彼がそんなことを考えていたのは、軽い衝撃だった。いつだって自信満々で、仕事の鬼で、自他ともに認めるイケメンで。

気づかなかったよ。私とポンちゃんに捨てられるかもなんて、不安を抱えていたんだ……。

私は肩を叩く代わりに、部長の髪を撫でた。硬い黒髪。うんうん、毛根は丈夫そう。

「愛想尽かしたりなんかしませんよ」

髪を撫でながら呟いた。

「あなたの印象は〝超絶苦手〟からスタートしてるんだから、あとはもう上がる一方でしょ」

それにこの人、私が思っていた以上に、妊娠生活に理解が深い。このノリなら、子どもが産まれてからも育児協力の期待ができそうだけどな。イクメンって言葉は死ぬほど似合わないけど。

「私も頑張るんで、仲良くやっていきましょうよ」

部長は目を覚まさない。聞こえていないくらいで、ちょうどいい。

私はしばらく髪を撫でながら、不思議な幸福感を味わっていた。

 

妊娠二十二週二日、六ヵ月も真ん中の週数となり、ポンちゃんの胎動は徐々に増えてきた。部長が触ってもわからないくらい微かだけど、ちゃんと動いている。

今までよりポンちゃんが元気にしているのが感じられて嬉しい。検診に行かないと、ポンちゃんの様子はわからなかったから。

まだお腹が張るという感覚はよくわからないけど、朝方お腹が硬くなっていることがある。これが張りなのかな。たまになので、あまり気にならない。

体重増加に気をつけてはいるものの、運動しているせいか、ごはんがおいしい。つわりで失われた体力も戻ってきている気がする。つまり、私は絶好調の安定期なのだ。

「検診、ついてけなくて悪い」

日曜日の夜、夕食を食べながら部長が言った。彼は明日からシンガポール出張だ。私はその間に検診と母親学級がある。来月に迫った式の準備も佳境だ。

「大丈夫ですよ。私もポンちゃんも元気だし、式の打ち合わせもひとりでできます。母親学級は直前にもあるらしいですよ」

私はポンちゃんのことより、二週間も部長と離れ離れになるほうが気になるんだけどな。

口には出さずに考える。部長、私のこと、どう思っているのかな。

一緒に暮らして窮屈そうなところはない。私の作るごはんは『うまい』って食べてくれるし、お腹を圧迫しそうなお風呂掃除なんかの家事はやってくれることも多い。なにより、ポンちゃんにはすでに愛着を感じている様子。

じゃあ私は?妊婦であっても、女としては見られていない気がする。

ここ数日考えていたことを、再び巡らせる。いいチャンスかもしれない。

夕食後、お茶を淹(い)れたタイミングで、勇気を出して口を開く。

「部長……あの」

彼は出した緑茶を、ずずーっとすすっている。

「私も安定期ですし……一応、私たち夫婦ですし、言うんですけど……」

「なんだ?」

「その……そういうこと、しても大丈夫ですよ」

部長はわかっていない様子だ。私は自分が赤くなるのがわかる。

「だから、その……エッチしても……大丈夫です」

安定期で、経過に問題がなければ、体位に気をつけてエッチOK!と病院でも言っていたし、『プレママさんが読む本』にも書いてあった。『エッグ倶楽部』なんか、そういう特集も組まれていた。だから、部長だってわかっているはず。

幸い、お腹はまだそれほど出ていない。違和感だって少ないと思う。私たちは恋愛していたわけじゃない。でも縁あって夫婦になったんだもの。そういうことをしたっておかしくないよね。部長だって男だし、発散の場を作るのは妻の役目だと思う。

「いや、いい」

彼は一切迷わず答えた。

「おまえが気を回さなくても大丈夫だ」

「え……?」

私は困って、目で問い返す。

部長の言葉をすごく冷淡に感じてしまう。真意が汲み取れない。

「現時点で、おまえとそういうことをする気はない」

その言葉は、はっきりとした意思を含んでいた。断定的で、拒絶的に響いた。

ハンマーで頭を殴られたような?冷水を浴びせられたような?

ううん、違う。恋の終わりのような、痛すぎるショックが私の全身を襲った。

『はい』と答えるつもりだった。だけど言葉は出てこず、代わりに涙が溢れだす。

なんだよ、なんだよ!恥を忍んで言ったのに!勇気を出したのに!

「おい、佐波」

「じゃー、エッチはアウトソーシングで願います」

ボロボロ泣きながら、部長をぎっと睨みつけた。

「相手に困ったこと、ないんですもんね!!」

言うだけ言って、椅子から立ち上がった。棚に置いてあった財布とスマホを手に、寝室に飛び込む。コートを掴んで、玄関に向かう。部長に止める暇を与えず、家を飛び出した。

なんだよ、なんだよ、なんなんだよ、バカ部長!

ずんずん歩く。涙はまだ止まらない。

部長が私に優しいのは、ポンちゃんを大事に思っているから。そんなことは知っていた。だけど、私はちょっと好きになりかけていたんだ。夫婦だからとか、部長は男だからとか理由をつけて、部長と肌を合わせたかったのは私のほうなんだ。女として好きになってほしいと、思ってしまったのだ。

なのに!あの大バカ男!私を好きじゃなくたってさ、もう少し言い方ってもんがあるでしょ?なんだよ!なんだよ!

スマホが振動しているのに気づいた。部長からメッセージだ。

【身体に障るから、早く戻ってこい】

カッチーン!ときたよ、私は!あくまでも部長が大事なのはポンちゃんだもんね!

私はメッセージを返さずに、電話をかける。

「……もしもし、夢子ちゃん?家にいる?」

相手は、職場の後輩の夢子ちゃん。

「彼氏が来てたら、追い返して!そして今晩、私を泊めて!!」

先輩権限発動だ!夢子、私の家出に付き合え!

電波の向こうで、夢子ちゃんが『えー?』と渋った声。

『仕方ないなぁ~、いいですよー』

意外にも簡単にOKが出た。

 

新宿で乗り換えて三十分。閑静というか閑散とした駅が、夢子ちゃんの最寄り駅だった。

「ウメさぁーん、こっちこっち~」

ロータリーで待っていると、錆の浮いた自転車をこいで、夢子ちゃんがやってくる。寒い三月の夜なのに、ミニスカートにサンダルだ。季節感ゼロ。これが若さ?

「お夕飯、食べましたぁ?」

「うん……急にごめん」

「まあまあ、とりあえず寒いんでぇ、コンビニ寄ってうちに行きましょ」

あ、寒いって感覚はあるのね。

 

夢子ちゃんの部屋は、鉄筋の古いマンションだった。単身者専用ではなく、ファミリーも住んでいるような造りだ。

部屋におじゃますると、新宿駅で買った手土産のケーキを渡す。

「ごめんなさい。今晩お世話になります。……あの、マジで彼氏、追い返しちゃった?」

夢子ちゃんはお茶を淹れようと、電気ポットをいじっている。

「あー、大丈夫です。この前、別れちゃったんで」

あっさりと答えが返ってきた。

「え?そうなの?」

「もー、大変だったんですよー」

彼女は、失恋のダメージを露とも感じさせない調子で言う。

「私、総務の近藤さんと、ちょっといい感じになってたんですよぉ。そしたら、それが近藤さんの奥さんにバレちゃって。まだエッチもしてなかったのにですよ?」

ほうじ茶のティーバッグを振って、「飲めますか?」と聞く夢子ちゃん。私は相槌も兼ねて、頷く。

「近藤さんの奥さんが、うちに乗り込んできたんです。ちょうど彼氏も来てて、もー修羅場ですよぉ。近藤さんも呼んで、四人で話し合いみたいなことしてぇ」

えー、今、私がおじゃましているこのワンルームでそんな騒ぎが?

「近藤さんと私が別れるっていうか?遊びに行ったり、連絡取り合ったりしないってことで、決着ついたんですけどね。結局、彼氏ともこじれて別れちゃいました」

「あんた……軽く言うね」

さらりとした報告に年齢のギャップを感じつつ、おばさん目線で突っ込むと、当の夢子ちゃんは唇を尖らせ反論してくる。

「軽くないですよぅ!結構ダメージ大きいんですから!ウメさんも結婚しちゃったし、私も彼と結婚したいなあって思ってたのに」

「社会人一年目で?」

「まー、先のことと思ってたんですよねー。だから、フラフラーッと既婚者と遊びたくなっちゃった。……自業自得なんで、泣くに泣けないんですよー」

ほうじ茶を運んでくる彼女は、明るくぼやく。

私たちは猫足の小さなテーブルを囲んで、夜のティータイムにした。

「とりあえず、お疲れさまだね」

「私、まだちゃらんぽらんの子どもなんですよね。それで結婚とか、赤ちゃん欲しいとか、資格ないよなあってわかってるんです」

夢子ちゃんが珍しく、しおらしい表情。こりゃ、本気でダメージ受けているな。

私だって、結婚も赤ちゃんも資格がない気がする。降って湧いたことに、責任を取りたいから必死なだけ。努力して夫婦仲良くやろうとしても、失敗しちゃうし。

そのとき、テーブルに置かせてもらった私のスマホが、着信を知らせて震えだした。何度目かの部長からの電話だ。

私が出るのを躊躇していると、夢子ちゃんがあっさりと私のスマホを取った。そして、受話表示をタップする。

「もしもーし、一色部長ですかぁ?私、山内ですぅ。山内夢子です。今夜、ウメさんはうちでお預かりしますのでぇ。はーい、心配しないでくださいねぇ~。では~」

彼女は終話表示を押すと、私のスマホの電源を落とした。

「はい。これで静かになった」

夢子……あんた、強くなったね。部長に怒鳴られて、泣いてばっかりだったあんたが……。

「ウメさぁん、なにがあったか知らないですけど、部長が明日から出張だとわかってて、家出してきたんですよね?」

私は頷いた。

「じゃあ、二週間は話し合いできないって、わかってますよね?失敗したての私が言いますけど、こじれると冷えきるのはあっという間ですよ?それでも、戻りませんか?」

少し口をつぐんで、やっぱり頷いた。

「今は、離れて頭冷やしたい」

「了解でーす。私はウメさんの味方だから、これ以上はなにも言わないでーす」

夢子ちゃんはニコニコ笑って、チョコレートケーキにフォークを突き立てた。

私もフルーツタルトをフォークで崩す。味はよくわからなかった。

 

翌朝、私は夢子ちゃんの家から出社した。

会社に着いた時点で、部長がすでに成田に向かっていることは知っていた。

私たちは二週間、会えない。

メッセージがスマホに届いたのは、朝ミーティングの直前だった。アプリを開く。

【佐波へ誤解させるような言い方をして悪かった。帰ったら、先のことも含めて、きちんと話をしたい。身体に気をつけて。無理をしないでほしい。困ったら、和泉さんや山内を頼ってくれ】

返信はしなかった。できなかった。なんと答えていいかわからなかった。

彼が気遣っているのはポンちゃんなのか、私なのか。私は彼とどう接すればいい?

かたちばかりの夫婦が、これほどつらくなるとは思わなかった。

 

部長が行ってしまった。私はひとりで黙々と暮らした。仕事をして、マタニティビクスをして、式の打ち合わせをして。

楽しみにしていた六ヵ月検診も、なんとなく上の空。

4Dエコーに映るポンちゃんを見たときだけ、泣きそうになった。ポンちゃんの顔が割合はっきり映ったのだ。

2Dエコーでは、すでに全身が映らないほど大きくなったポンちゃん。4Dでお口をモゴモゴしているポンちゃんは、どことなく部長に似ていた。まだ性別はわからないけれど、目鼻立ちの配置が部長に近い。部長似なら、男の子はイケメン確定だ。女の子だって、ちょっとした美人に違いない。

ごめんね、ポンちゃん。

私は画面を見ながらお腹に話しかけた。

ママ、あなたのパパと険悪になっちゃったよ。ふたりであなたのために家族になろうと思ったのに。ママひとりが先走って、パパに引かれちゃったみたい。

ああ、ダメ。本当に泣きそう……。

 

「元気ないのね」

六ヵ月も終わりに差しかかったある日、美保子さんとマタニティビクスを受けての帰り道だった。

「え?そう見えた?」

私は驚いて聞き返した。彼女は隣に立って、つり革を握っている。そしてニッコリと笑った。

「ねえ、佐波さん。今日、うちに遊びに来ない?」

「これから?」

「そう。うちの主人、出張でいないの。帰りは私が車で送るわ」

うちの主人も海外出張だわ。浮かない気分のまま私は頷いた。

 

美保子さんの家は最寄り駅こそ違うけど、割と近所だ。小さくて可愛いオシャレな一戸建てで、初めておじゃまする。

室内は、彼女の印象そのままのインテリアで統一されていた。温かみのある茶色の木材。ささやかなレースの装飾。素朴な色の家具。玄関とリビングに活けられた生花。

棚には、美保子さんとメガネをかけた旦那さんの写真がある。結婚式の写真だ。今とあまり変わらないけど、少しだけ若い彼女が幸せそうに笑っている。

その横に、フォトフレームに入ったエコー写真が一枚。まだどこにベビーが映っているかわからないくらいのものだ。

「これ、お腹のベビーちゃんのだね」

私はなんの気なしに、お茶を淹れてくれる美保子さんに話しかけた。彼女が穏やかに首を横に振る。

「それは私の、最初の赤ちゃんの写真」

「え?」

「十週目に流産しちゃったけど」

彼女はティーカップに注いだハーブティーを、私の近くに置いた。

マズイことを聞いてしまった。私はひどく狼狽して、二の句が継げない。

すると、美保子さんがふわっと微笑んだ。

「少し、この子のこと話してもいい?」

この子。エコーに微かに映る、いなくなった彼女の赤ちゃんのことだ。私はおずおずと頷いた。

「三十歳で結婚して、三年目にこの子がやってきてくれたの。私も夫もすごく嬉しくて、妊娠がわかってからは世界中がキラキラと輝いて見えた。でも、十週目で急に出血があって。病院に行ったら、すでに赤ちゃんは私の中にいなかった。天国から地獄。まさにこのことだと思ったわ」

美保子さんは淡々と語る。私はじっくりと話を聞くため、椅子にかけた。

「悠長に次の赤ちゃんを待とうなんて思えなかった。病院で即、不妊検査。夫も協力してくれてね。結果、異常はなかった。そこから、タイミング法で妊娠を待つことにしたの。毎月、排卵日に義務のようにセックスをして、生理が来ると涙が止まらないの。赤ちゃんができなかった悲しみだけじゃない。いなくなってしまったあの子のことを思い出すの。どうして?私が悪かったから、行ってしまったのかなって」

ハーブティーのカップを包む美保子さんの綺麗な手。伏せられた瞳は、カップの波紋を見ているみたいだ。

「一年間、タイミング法を試したわ。死んでしまったあの子の出産予定日の頃は、すごくつらかった。あのまま育ってくれてたら、今頃は抱っこできたのにって」

思い出した。転院先を探していたとき、ネットで見た。彼女が通院する武州大学病院は、不妊治療で有名な病院だった……。

「妊娠に集中したくて、長年勤めた会社も辞めて、体外受精に踏み切ったわ。費用はかかるけど、夫は賛成してくれた。私は絶対赤ちゃんが欲しかったし、毎日注射するのも苦にならなかった。でも、心は不健全だったと思う。暇さえあれば、ネットで不妊について調べちゃうの。そして、どうして私のところに赤ちゃんがやってこないのか考えるの。毎日がつらくてつらくて、狂いそうだった」

私は受け取ったカップを一度も持ち上げられず、ただその経験を聞いていた。美保子さんは、低く続ける。

「二回、体外受精にチャレンジしたけど、一回目は着床しなかった。二回目は着床したけど、育ってくれなかったわ」

苦しいはずの話を、美保子さんは静かに語った。感情を見せないことが、逆に彼女の歩んできた道程を表しているかのようだった。

「二回目の失敗のあとよ。私は誕生日ケーキを買ったの。いなくなってしまったあの子。もし産まれてれば、今日で一歳って日にね。〝一歳おめでとう〟ってプレートも載せてもらって。家でお祝いのごちそうを作ってたら、夫が帰ってきた。私が産まれなかった子の誕生日祝いをしようとしてるって知って、彼は泣きだしたの。流産のときも泣かなかった彼が、声を上げて、私を抱きしめてね。『美保子、もうやめよう』って。『抱くことはできなかったけど、僕たちは子どもを授かった。それで、もういいじゃないか。新しい赤ちゃんなんて、いらないじゃないか』って」

美保子さんの手が、きゅっとこぶしに握られた。

「私はそのとき、ようやく気づいた。私の一途な願いが、彼を苦しめていたことに」

話を聞きながら、私は泣いていた。身体に子を宿した身として、彼女の苦痛が想像できた。

いや、完全にはわからないかもしれない。最初、お腹の子を殺そうとした私には、涙する資格すらないかもしれない。

「私たちは子どもを持つことを諦めたわ。平穏な日々が戻ってきた。私はオフィスワークのパートを見つけて仕事を始めたし、週末は以前のように夫婦ふたりでランチしたり、旅行に出かけたりした。不妊治療中は、排卵日や採卵日が気になって、あまり出かけようって気にならなかったから。そしたら、不思議なことが起こった。自然に妊娠してたのよ」

美保子さんがようやく顔を上げた。

「でも、私はずっとビクビクしてた。心拍の確認ができて、つわりが始まっても、怖くてたまらなかった。お腹のチビちゃんが少しずつ大きくなって、四ヵ月になったとき、やっとお医者様が言ったの。『初期流産の心配はなくなりました。おめでとう』って。私たち、診察室で大泣きしちゃったわ」

お腹をそっと撫でて、彼女は微笑んだ。

「それが、今お腹にいるチビちゃん。きっと、行ってしまったあの子が私たちに授けてくれたの。『弟をお願い』って言ってる気がする」

「男の子って、わかったんだね」

「うん。一昨日のエコーに映ってたわ」

マタニティビクスに通いだしてすぐ、他の妊婦さんたちと〝羊水検査〟の話になったことがある。

羊水検査とは、羊水中の胎児の細胞から、染色体異常の有無を調べる検査だ。

『絶対にしない』

そのとき、美保子さんは決然と言った。いつも柔らかい口調の彼女だから、違和感を覚えたっけ。

彼女には、お腹の赤ちゃんのすべてを受け入れる覚悟が、もうできていたのだ。

もし障害がわかっても、命の選別にあたることは絶対にしない。その強い覚悟がすでにあったのだ。

「ねえ、美保子さん。どうして私にこの話をしてくれたの?話すの、つらくなかった?」

私が問うと、美保子さんは大きな瞳を優しげにすがめた。

「さあ、どうしてかしら。家族以外、誰にも話したことないの。いつもお友達が来るときは、あのエコー写真も片づけておくんだけど。でも、なんとなく、佐波さんとはママ仲間として長いお付き合いになりそうだし、話しておきたかった。重い話を押しつける格好になっちゃって、ごめんなさい」

私はまだ泣いていた。大事なことを話してくれた彼女の気持ちが嬉しかった。そして、彼女の気持ちに応えたいという思いが湧いてくる。

「美保子さん、私がこれから話すことを聞いたら、嫌な気分になるかもしれない。私のこと嫌いになるかも。でも、聞いてくれる?」

「嫌いになんてならないわ」

美保子さんは新しいお茶を、ふたつのカップに注ぐ。それから、誰にも話せなかった私と部長の話を、じっと聞いてくれた。

長くはないけれど、美保子さんの経験とは真逆の話を終えると、私の想像に反して彼女は「素敵」と微笑んだ。

「素敵じゃないよ。私は一度、この子の死を願っちゃったんだ」

「状況が違えば、私だってそう思うことがあったかもしれない。……私が素敵だと思ったのは、お腹のポンちゃんが、佐波さんとご主人のキューピッドだってことよ」

キューピッド?って、私の想像が合っていれば、矢を持ったあれよね。羽の生えた裸ん坊の子どもよね。

「こう思うのはどうかしら?佐波さんとご主人は惹かれ合う運命だったの。その後押しをしてくれたのが、ポンちゃん」

「そんなぁ。私たちは、責任取ろうって一緒になっただけなんだよ?」

「責任だけで人の一生は決められないと思う。ご主人の中には、きっと佐波さん個人を大事に想う部分が確かにあるはずよ。私は行ってしまったあの子も、今お腹にいるチビちゃんも、私と夫の絆を深めてくれたと感じてるわ。子どもたちって、夫婦にいろんなものをくれるのね」

確かにそうだ。この子ができて、戸惑って、悩んで、つわりに苦しんで。部長はずっと私の手を引いて、助けてくれた。

優しくて、ときどき怖くて、面倒くさいくらいマメで。

好きになっちゃったんだ。

ポンちゃんのおかげで、私は大事な人を見つけてしまった。

「帰ってきたら、旦那と話してみよっかな」

私は泣き笑いみたいな、苦笑いみたいな顔をしていたと思う。

美保子さんが、比べ物にならないくらい美しく笑った。

「それがいいわよ」

 

「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから

この記事のキュレーター

砂川雨路
新潟県出身、東京都在住。著書に、『クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした』(ベリーズ文庫)『僕らの空は群青色』『ご懐妊‼』(スターツ出版文庫)などがある。現在、小説サイト『Berry’s Cafe』『ノベマ!』にて執筆活動中。

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