ご懐妊!! 第7話 七ヵ月

OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!

 

妊娠七ヵ月(二十四~二十七週目)
胎児(二十七週末)…三十五センチメートル、千グラム
子宮の大きさ…二十四センチ前後

 

美保子さんと話して数日、ポンちゃんは七ヵ月に入った。その二日後の日曜日、部長がシンガポール出張から帰ってくる。

私は家中を掃除し、前に部長がおいしいと言ってくれたサバの味噌煮と、いんげんのゴマ和えを作って待っていた。

夕刻、玄関のドアが開いた。

「ただいま」

部長は私の手に、謎のお菓子を載せて言った。見たことのないパッケージで、私へのお土産らしい。

「おかえりなさい」

私はそのお菓子をキッチンに置き、代わりに六ヵ月検診のエコー写真を渡した。

「今回も性別はわかりませんでした」

部長は「おお」と呟き、しばらく見入っていた。私は手持ち無沙汰に、それを見つめる。

「ありがとう」

彼が私にエコーを返す。視線がぶつかった。

「少し腹が大きくなったな」

「そうかもしれません。ポンちゃん、三十センチくらいありますし、体重も五百五十グラムでした。ペットボトルより重いです」

「……佐波」

部長があらたまった調子で私を呼ぶ。次の瞬間、私の手を取り、身体を引き寄せた。勢い、私は彼の腕の中に飛び込むかたちになる。

部長の腕が私を包み、抱きしめた。

「ちょっ……部長っ」

「いーから、黙ってろ」

時間にしたら一分くらい、私たちは抱き合った状態でいた。心臓がバクバクいう。

血流がいいせいか、パパの気配を感じてか、ポンちゃんがぽくぽくとお腹を蹴る。

身体を離すと、彼は言った。

「これで我慢する」

「どういう……ことですか?」

「佐波、結婚しようって話したとき、俺が言った言葉を覚えてるか?」

「えっと……」

どんなこと言ってたっけ。責任を取ろうって話したのは覚えてるんだけど。

部長が目を逸らした。もしかして、恥ずかしい?

「俺は、あの夜のことは全部覚えてるって言っただろう」

「はぁ。あの?」

それって、ポンちゃんができた夜だよね。

私が間抜けに聞き返すと、部長はさらに目を逸らしてついに真横を向いてしまう。

「おまえの抱き心地がよかったのだって、覚えてるんだよ!いろいろな女と寝てきたけど、よりにもよって一番相性がよかったのが部下かと、愕然としたよ!」

部長の言葉に、見る間に私の顔も赤くなる。

「てっきり私、女として、なしかと思ってました……」

「おまえから誘われて、嬉しくないわけないだろうが!嫌いで『しない』って言ったんじゃない。……ただ、ビビッてんだよ、俺も。ポンに影響はないって、頭ではわかってる。でも、俺の欲望に任せて、もしポンになにかあったらと思うと、そういう気分になれない。それは今もだ」

だから、ハグなのか。それで我慢ってことか、私も彼も。

なんだ、この人、やっぱり優しい。ポンちゃんにも、私にも。

「誓って言う。おまえとのことがあって以来、浮気にあたることは一切ない。それは、信じてほしい」

「信じてます」

私は部長の両手を取った。彼が少し驚いた顔をしているのを、じっと見つめる。

「感じの悪いことを言ったり、家出したりしてすみませんでした」

両手に力を込める。今はこれでいい。この距離がちょうどいい。

ポンちゃんを囲んで、また私たち、運命共同体に戻ろう。

「また、夫婦として仲良くしてください」

「当たり前だ、バカ。……あと、たまには部長以外の呼び方をしろよ」

「はい……。えっと、ゼンさんで……いいですか?」

部長がやっぱり目を逸らして頷く。恥ずかしいんだね。私だって恥ずかしい。

「ゼンさん、これからもよろしくお願いします」

そこから、私も部長も照れてしまって、しばらくなにも言えなかった。

私たちが食卓に着いたのは、もう少しあとのことだった。

 

部長が出張から帰ってきたのが日曜。次の土曜日が、私たちの結婚式だった。

カレンダーは四月。麗らかな春の日だった。

挙式と披露パーティーは、日にちと場所、招待客を分ける。今回は挙式のほうで、熱海のチャペル付きのホテルが会場。

招待客は、うちの両親と唯一元気な母方の祖母。部長のほうは、叔父さんご夫妻とうちの会社の外丸社長。招待客たった六人の小さな式だ。

土曜日の朝に現地入りして、簡単なリハーサルをする。そして私と部長は、それぞれ着替えにメイク。メイクや髪型のリハーサルは東京の系列ホテルでやったけれど、やっぱりドレスやブーケと合わせると違って見える。

花嫁姿ができ上がった。百合の生花を髪に飾って、シンプルだけど上品なドレスに身を包む。ブーケも満開のカサブランカにしてもらった。

おおー、馬子にも衣装。私は鏡に向かって、スマホでパシャリと撮影する。さらに自撮り。人生で一番盛った私を残しておかなきゃ。

「撮りますよ、新婦様」

メイクさんが写真を撮ってくれた。

「とても、お綺麗です。新郎様にお見せしましょう」

新郎新婦の控室に行くと、ロング丈のフロックコートをキリッと着こなした部長がいた。男性も軽くメイクするらしいけど、やっぱり部長はカッコいい!ちょっといないレベルのイケメンだ。

私たちはお互い顔を見合わせて、「おぉー」と感嘆の声を上げた。

「部長、カッコいい」

私が素直に褒めたせいか、彼は恥ずかしそうに頭をかいてから、ひとこと。

「綺麗だ、佐波」

もう!そのセリフ反則!嬉しくて抱きつきそうになったじゃない!

「ポンのいる腹が目立って、逆にいい感じだな、そのドレス」

部長が照れ隠しなのか、ドレスを褒める。

式が七ヵ月目ということで、ある程度お腹を考慮して選んだのはAラインドレス。

ビスチェタイプで胸の下に切り替えがあり、そこからはレースも飾りもないので、ポンちゃんのいるお腹の丸みは割とはっきり見える。

マタニティウェディングだと、隠したい新婦さんも多いみたいだけど、私はポンちゃんも一緒に式に参加って感じにしたかった。わざと目立つデザインを選んだのだ。

「なんか、ワクワクしますね」

私は、ふふふと笑う。

「まあな」

部長もニッと笑った。

 

正午ぴったりに、私たちの挙式が始まった。

チャペルの扉が開く。讃美歌を歌うお姉さんたち。パイプオルガンの響き。

隣には、すでに号泣している父。

「お父さん、しっかりして」

「うぅう……佐波ぁぁ」

バージンロードを進みたいのに、父は涙で前後不覚だ。

「お父さん、しっかりしなさーい」

客席から、母が呑気な呼びかけをする。もー!式本番なんですけど!

私は泣きじゃくる父の腕を取って、引きずるようにバージンロードを歩いた。紋付きの父親を引きずる妊婦花嫁。結構勇ましい図だ。

そんなオープニングにもかかわらず、式はつつがなく、美しく、幸福に進んだ。

隣には部長。お腹にはポンちゃん。

私たちの家族も見守ってくれている。

結婚式は、女性がお姫様みたいに扱ってもらえる唯一の日って聞いたことがある。でも、私は可愛いお姫様じゃない。もうじき、ママになるんだ。これは、責任を取る儀式。すごくハッピーな気分だけどね。

この日までしないでおいた結婚指輪を交換して、神様の前で愛を誓う。

「誓いのキスを」と言われ、すごく緊張した。部長がベールを上げる。彼もまた、やや緊張の面持ちだ。

私もドキドキだし、ポンちゃんは張り切ってモゾモゾ動いている。

少し身長差のある私たちは、部長がかがみ、私がちょっと顎を上げてキスをした。

あの夜ぶりのキスは優しい感触。

唇が離れ、視線が絡み、私たちはどちらからともなく笑ってしまった。それは、私たち夫婦をとても幸せそうに見せたと思う。

こうして、私と部長はあらためて夫婦として誓い合ったのだった。

 

式が終わり、軽い会食になる。

私は初めて、部長の叔父さん夫妻に挨拶をした。

うちの両親より年上の印象の叔父さん夫妻は、結婚式をとても喜んでくれていた。

「ふたりの写真を、褝くんのお母さんにも見せておくからね」

『お加減はいかがですか?』と聞こうとしたけど、横から部長が引き取って話す。

「ありがとうございました。母をよろしくお願いします」

やっぱり彼は、お母さんのことは話題にしたくないみたい……。

 

部長の叔父さんご夫妻は、会食が終わると帰途に就いた。名古屋(なごや)近辺が部長のご実家で近いからと、宿泊を遠慮されたみたい。

宿泊メンバーのうち、父と社長は部長を連れて、ホテルのバーラウンジで早々に酒盛りを始めてしまった。挙式直後なのに……。想像ついたけど。

割り切って、私と母と祖母は、豪華な大浴場と露天風呂を楽しんだ。

「佐波ちゃんがお母さんになるなんて、嬉しいね」

湯船の中、祖母はしわしわの手で私のお腹を撫でた。昔、祖母とよくお風呂に入った。身体を洗ってもらったことを思い出す。

「おばあちゃんの曾孫だよ。たくさん抱っこしてあげてね」

「あらあら、ダメだよ。おばあちゃん、もう体力なくなっちゃったんだ。たくさん抱っこできないよ。……今から腕立て伏せしたら、産まれるまでに筋肉が戻るかねぇ」

「あら、いいんじゃない?あと三ヵ月くらいあるから、私もやろうかしら、腕立て伏せ」

母が真顔で相槌を打つ。

「ヒンズースクワットも長寿にいいらしいよ。毎日百回やる芸能人がいるんだから」

「やだ、血圧が上がっちゃいそうよ、母さん。でも、孫育てには体力がいるものね。やっぱり必要?」

大真面目に相談する母と祖母を見つめ、母の天然は祖母譲りに違いないと確信する。

お腹を撫でると、お風呂が気持ちいいのか、ポンちゃんは伸びやかに動いている。この半月でいっそう胎動が強くなった。

すると、ひくっひくっと規則的にお腹が動きだした。外から見てもわかるくらい。あ、これは……。

「お母さん、おばあちゃん、見てー!ポンちゃんがしゃっくりしてるー!」

「あら本当」

「懐かしいねぇ。六十年も前だから忘れちゃってたよ」

ふたりはまた交互に私のお腹を撫でだした。

不思議。私はお母さんから産まれた。お母さんはおばあちゃんから産まれた。ポンちゃんは私から産まれる。不思議。命の連鎖だ。

この愛おしい幸福。産まれること。産むこと。

ああ、すごく愛おしい。きっとポンちゃんができなければ、こんな気持ち、知らなかった。

私は母と祖母と、いつまでもお風呂に浸かっていたかった。この四人の時間をじっくりと味わいたいと思った。

 

披露パーティーは六日後に無事執り行われ、次の月曜日、私たちが待ち望んだひとつの事実が判明することとなった。

「あ」

「あ、これって」

二十六週三日、七ヵ月検診。

2Dエコーでポンちゃんを見ていると、銀縁メガネ先生と部長が同時に声を上げた。

「ご主人、見えちゃいました?」

銀縁先生が、えへっと笑った。部長が、うんうんと頷く。ふたりとも子どもみたいな表情だ。

「え?見えたって、もしかして?」

私が頭だけベッドから起こす。銀縁先生がプローブを動かして、画面を固定した。

えーと、画面に映るのは……よくわからん。縮尺も、身体の部位もぴんとこない。

「女の子ってことですよね」

部長が画面を指差し、先生に問う。

「はい、正解です。この葉っぱみたいなのが、女の子のおまたですね」

ええ!?私は画面を見直す。確かに線一本に、椿の葉っぱみたいな膨らみ。

「一応、4Dに切り替えますが、ここまではっきり見えたら確定でいいと思いますよ」

「ほ!本当ですか?」

大声で聞き返した。

「僕、過去に間違えたのは二件だけです。それも、超音波がもうちょっと荒かった時代なので。ここ十年ちょっとは勝率百パーセントですよ」

先生が請け負った。

うわー!女の子だって。うわー!

私の世界が一瞬にして開けた。いや、男女どっちでもよかったけど。でも、性別がわかるってすごい。今の一瞬で、三十年くらい先まで、未来予想図がよぎったよ!?

ピンクの産着を着たベビーや、おひな様を飾った初節句、可愛い服を着せて一緒にお買い物とか!部長をメロメロにさせといて、思春期が来たら『嫌い!』とか言って、仲良くなったと思ったらお嫁に行ってしまう。……そんな女の子ポンちゃん。

一瞬でどこまで脳内構築しちゃったんだ、私。

というか、エコーが通った瞬間、それに気づいた部長がすごい!『エッグ倶楽部』で〝ご自慢エコー写真特集〟なんて記事、読んでたもんね。予習が半端ないから、どんぴしゃ大当たりだよ。

横目で当の部長を見ると、彼は感極まった表情をしている。まつげや指先がプルプル震えちゃうくらい。

あ、こりゃ、この人も想像したな。ポンちゃんが大きくなるまでの未来予想図。

4Dに切り替わった画面では、ポンちゃんのお顔が見える。食いしん坊なのか、お口をモゴモゴ。そして、すっかり上手になった指しゃぶりを見せてくれる。

ああ、女の子なんだね、あなたは。やっぱり部長に似ている気がするから、きっと美人になるね。

待ち遠しい!早く早く、あなたに会いたいなぁ!

「体調、お変わりはありませんか?」

二ヵ月ぶりに会ったメガネっ子助産師、時田さんは相変わらずクールでツンツンで、私が体重管理を頑張っていることも褒めてはくれなかった。

でも、別にいいもんね!ポンちゃんの性別がわかったってだけで、今回の検診は大満足!病院を出たら実家に連絡して、会社で和泉さんと夢子ちゃんに話して、今夜のビクスで美保子さんに報告して……。

「お腹の張りはありませんか?」

「ないですよ」

「強い痛み、出血があったら、こちらにご連絡ください。自己判断はダメです。胎動は毎日確認してください」

メガネっ子の話を上機嫌で聞きながら、私はワクワクが止まらなかった。

 

新宿に着き、会社に入る前に、近所の定食屋で部長とランチをする。

ふたりともそわそわした気分が抜けず、何度も「女の子かぁ」「女の子ですねぇ」のやり取りを繰り返す。

「よし!今日から名前の検討に入ろう!」

彼がテーブルにやってきたカツ丼を持ち上げ、言った。

そう言うと思いました。私は自分の黒酢あん定食に箸をつける。

「呼びやすいのがいいですよね」

「だな。だけど、ゴテゴテした暴走族かキャバ嬢か、みたいな名前はやめよう」

「確かに。大人になって、取引先に名刺を出すのが恥ずかしい名前は嫌ですもん」

「かといって、クラスにたくさんいる名前じゃ、アイデンティティの問題になる。その上、画数や意味も考えると難しいな」

話が弾む、弾む。もともと私たち夫婦って、恋愛しなかった割に会話が多い。テレビのニュースや会社の内輪話で盛り上がることも多々。

だけど、やっぱりポンちゃんトークは半端なく楽しい。名前は、絶対決めなきゃいけないことだしね。

「部長のお名前の由来は?〝褝〟で〝ひとえ〟って読むのも珍しいし、あんまりない名前ですよね」

ついでに聞いてみようと、私は問う。前から聞いてみたかったし、名付けの参考になりそうだ。

「うちは……死んだ親父が坊さんだったからな」

部長が少し言いあぐねてから、口を開いた。

「え!じゃあ、ストレートに跡継ぎ用の名前じゃないですか!」

私が呑気に答えると、彼は首を横に振った。

「俺は、親父が年を取ってからの子なんだよ。だから、跡継ぎに育てようとは思わなかったらしい。この名前は母がつけた。……親父との数少ない繋がりなんだろうな」

部長は口が重そうだ。話題を変えたほうがいいような気配を感じる。慌てて、自分の名前の由来を話しだす。

「私は母から一字もらってます。佐代子の佐」

「なるほど。それもありだな」

「波の字は、母の実家が新潟の柏崎なんですよ。そっちの海辺の病院で私を産んだそうで。産まれた日に綺麗な白波が立っていたから、そこからもらったって言ってました」

「……綺麗なエピソードじゃないか。そういうの、欲しいな。ポンにも」

部長の口調がいつも通りに戻っていて安心する。

しかし、名前かぁ。すぐには決まらないだろうな。

残り三ヵ月、一番の宿題だ。

 

二十七週〇日の金曜日のことだった。その日、私は二十二時近くに帰宅した。

今日はビクスじゃなくて、仕事で遅くなったのだ。というか、今週はめちゃくちゃ忙しかった……。披露パーティーから一週間しか経っていないのに、はるか昔のことみたい。それくらい忙しかった。

妊娠してから、周りの協力もあり自分でも仕事をセーブしてきた私。だからこの忙しさは久しぶりだ。挙式、披露パーティーと駆け抜けてきたから、疲れを感じるなぁ。

夢子ちゃんとふたりでオフィスを出るときに、ちょうど部長が外出から戻ったところだったので、彼も間もなく帰ってくるだろう。

私は鍵を玄関に置き、まずソファにドサッと座る。

最近、ぐっとお腹が大きくなった。お腹の張りも増えてきたように思う。あと一週間で八ヵ月だもんね。いよいよ妊娠後期だ。

しかし、今日はやたらとお腹が張った。午後なんかは張りすぎて、オフィスチェアに前かがみに座るのがつらかった。

休憩中は常にふんぞり返っているけど、今日はあんまり休憩も取れなかったなぁ。トイレが近くなったから、何度か行ったけど、そのくらいだ。

これが出産まで続くんだろうか。それって結構大変じゃない?

私はのそのそと立ち上がり、トイレに向かう。本当にトイレが近い。パンツを下ろして、凍りついた。クロッチ部分に赤茶色の染みがある。
なにこれ?

急いで用を足し、拭くと、ペーパーにおりものに混じった血液が見えた。それは茶色ではなく、うっすらではあったけれど、赤々とした鮮血だった。

出血だ……。

急いでトイレを出て、『プレママさんが読む本』を本棚から引っ張り出す。

出血、出血の項……。

【妊娠中期以降の出血→産院に連絡、受診】

【出血の状態の他に、お腹の張り、痛み、胎動の様子を確認】

文章を素早く目で追う。

張り?今日はすごく張った。痛く感じるくらい。

胎動?忙しかったし、お腹が張りすぎて、よくわからなかった。

どうしよう。これってポンちゃんになにか起こったってことなのかな。

手も足もカタカタ震えだす。その恐怖は、今まで感じたことのないものだった。

出血?ポンちゃんになにかあった?ポンちゃんの動きはわからない。

ポンちゃんが私からいなくなってしまったら?嫌だ!そんなの絶対ダメ!ポンちゃんを失うようなことがあったら、私きっと耐えられない。

【切迫早産】

そんな言葉も目に映る。そうだ、いきなり出産になる可能性だってゼロじゃない。

ポンちゃんは、この前の検診で九百二十グラム。今出てきていいはずはないけど、出さなければいけない状況もあり得る。

私は動揺と恐怖で泣きだしていた。

「ポンちゃん、ポンちゃんってば」

怖くて怖くて、お腹を撫でながらポンちゃんを呼ぶ。相変わらずお腹は硬く、ポンちゃんの反応は感じられない。

違う、こんなことしている暇ないよ!

泣きながら、母子手帳をバッグから引っ張り出す。産院に連絡しなきゃ。

『……それでは、すぐに受診してください』

私が状況を話すと、電話の向こうで助産師さんが冷静に言った。

『どうやっていらっしゃいますか?念のため、徒歩と、ご自身での運転は避け、ご家族の運転かタクシーでいらしてください』

その言葉でようやく思い至る。そうだ、部長に連絡しなきゃ。急いでかけると、彼はすぐ電話に出た。

『今、駅に着いたぞ。あと十分以内に帰る』

「部長!病院まで車を出してほしいんです!」

私の泣き声がわかったのだろう。彼は細かく聞く時間も惜しいように答えた。

『わかった。すぐに戻る』

 

部長の登場はすさまじく早く、息を切らしていたので、彼が駅から走ったことがわかった。

「どうした!?」

「部長!」

私はリビングに現れた部長に飛びついた。彼の肩に手を置き、すがるような姿勢でことの次第を話す。怖くて涙が止まらない。

ポンちゃん!私のポンちゃん!出血なんてなにがあったの?お願いだから、無事でいて!

「落ち着け、佐波」

部長が私の肩をぐっと掴む。

「ポンは二十七週だ。もし、このまま早産になったとしても、育つ可能性のある週数だ。近くの武州大学病院にはNICU……新生児集中治療室もある」

「でも、部長!もし、ポンちゃんになにかあったら!私……」

私は泣きじゃくっていた。

愛するものを失うかもしれない恐怖。それが、我が子かもしれない。初めて知った。この恐ろしい感情。そして、祈り。

神様、お願いします。この子が助かるなら、私の命なんかいらない。

「大丈夫だ!」

部長が私を抱きしめた。お腹を圧迫しないように、頭と肩を引き寄せたかたちだけど、その抱擁は力強かった。

「ポンは俺とおまえの娘だ。きっとおまえに似て根性がある!こんなこと、なんでもない!」

「部長……」

「ポンを信じろ!!」

私は部長の首筋に顔をうずめ、何度も頷いた。彼の匂いは安心する。

そうだ、信じなきゃ。そして、しっかりしなきゃ。私が母親なんだから!

 

部長の運転で産院に着くと、入口であのメガネっ子助産師、時田さんが待っていた。

「診察室へどうぞ。間もなく先生が来ますので」

彼女の口調は、いつにも増して堅かった。

診察室へ入ると、また不安が頭をもたげてきた。怖い……。

私の泣き腫らした顔を見たのだろう。時田さんが、私の前にひざまずいた。驚く私の手を、大きな胸の前でぎゅっと握る。

「もう少しで赤ちゃんの様子がわかりますからね」

思わぬ温かな感触に、私の心が和らぐ。すぐに先生がやってきて、彼女は奥に引っ込んだ。

内診、エコーと検査は続く。部長は隣にいてくれる。

エコーを見ながら、先生が頷いた。

「うん、わかりました」

固唾を呑んで見守る私たちを前に、先生はエコー画面を指差す。

「結論から言いまして、赤ちゃんは元気です。子宮口も閉じています。尿も血圧も大丈夫。切迫早産や他の異常の所見もありません」

「じゃあ……出血は……」

「それは、子宮膣部びらんですね」

「は?」

聞いたことのない病名に、私も部長も変な顔をしてしまう。

「これは、病気ではなくて状態を指す言葉なんですが、子宮の入口部分がびらん状に見えるんです。成人女性の八割にあると言われます。ここは妊娠中、ちょっとした刺激で出血しやすい」

先生がプローブを動かしながら言う。ポンちゃんの手か足らしき部分が映っている。

「今日は頻回、張りを感じたそうですね。張りは子宮の収縮で、生理現象です。疲れがたまっていると張りやすい傾向があるので、張りが刺激になっての出血かな。よくあるのは、性交渉や内診の刺激ですけどね」

プローブが外され、画面にはなにも映らなくなる。先生が私たちを見て言った。

「冷やさないようにして、疲れや張りを感じたら意識的に休憩してください。あまりに張りが強かったり、続いたりするようでしたら、また受診してくださいね」

先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに、真横でドサッと音がする。

私がベッドから顔を起こすと、横で部長が床に膝をついていた。

安心したのかな?……と思ったけど、様子が違うみたい。

「あらあら。ご主人、大丈夫ですか」

先生が診察用の丸椅子から立ち上がる。声は落ち着いているけど、すぐに看護師さんを呼ぶ。

「部長!……ゼンさん!!」

彼は頭を押さえて、うずくまっている。

「大丈夫ですか!?ゼンさん!!」

私はお腹のゼリーを乱暴に拭って、ベッドから跳ね起きた。

 

処置室のベッドで点滴をされ、いびきをかいて寝ているのは部長だ。私はその向かいでリクライニングソファに座っている。

過労とそれに伴う貧血。それが彼への診断だ。

そういえば、挙式から披露パーティーまで駆け抜けてきたのは部長も一緒なわけで。しかも、彼の仕事は変わらず激務だ。

『貧血なんて……俺は女子か!』と呻いていた部長も、点滴に繋がれたら、あっという間に寝落ちしてしまった。お疲れですよ、部長。

私はそっと天を仰ぐ。見えるのは処置室の天井だけど、心の晴れやかさといったらなかった。

ポンちゃんは元気だった。それだけで、もうなんにもいらない気がする。

母親ってすごい生き物だ。子どもになにかあったら……そう考えたときの恐怖、危機感。自分の命すら投げ出したって構わないと思えた。湧き起こるパワーと、せめぎ合う過剰なまでの不安。妊娠しなければ、わからなかったことだらけだ。

すると、処置室のドアが開いた。入ってきたのはメガネっ子助産師、時田さん。

「何事もなくて、よかったですね」

彼女は私の前にやってくると、すっかりいつものツンツン口調に戻って言った。

私は幾分か打ち解けた気持ちになって、へらっと笑った。

「いやぁ、大げさでした。お騒がせしました」

「いえ、きちんと出血に気づいて、すぐに受診した一色さんの判断は正解です」

彼女は打てば響くようなスピードで答える。

「本当に、よかった……」

呟いて、一礼すると部屋を出ていった。その瞳が涙で濡れていたのを、私は見逃さなかった。

「あの……」

処置室や裏で作業中の、別の助産師さんに声をかける。看護師長で助産師の天地さんが「はいはい」とやってくる。

「さっき、時田さんが……」

泣いていたみたい。私、なにかしちゃったのかな。

言葉にできずにいると、察するところがあったのか、天地さんは首を横に振った。

「一色さんのことじゃないのよ。気にしないでね」

「でも……あの……」

あんなツンツン女子が、親身になって手を握ってくれたり、涙を見せたり。おかしいじゃん。気になるよ。

私が食い下がるので、天地さんは作業の手を止めて隣の椅子に座った。部長はがーがー寝ていて、まだ起きる気配はない。

「あんまり、妊婦さんに進んでしたい話じゃないんだけどね」

天地さんは前置きする。

「時田さんは去年、学校で助産師資格を取ったんだけど、実習で妊婦さんの死亡案件を見てるの」

「え?」

「彼女がバースプランを一緒に作った妊婦さんだった。お産もタイミングが合えば取り上げてねと頼まれて、仲良くさせてもらってたんですって。その妊婦さんが緊急搬送されてきた」

私は我がことのように心臓が鳴りだすのを感じた。さっきの恐怖が蘇るようだ。

「常位胎盤早期剥離。出産より先に胎盤が剥がれてくる病気でね。原因がわからず起こることもあるの。赤ちゃんもママも死亡率が高い」

聞いただけでぞっとする病気に、背筋が寒くなる。

「緊急帝王切開が行われたけれど、ママのほうは出血がひどすぎて助からなかった。唯一の救いは、赤ちゃんを救命できたこと。後日、時田さんは彼女の旦那さんにお礼を言われたんですって。妻の最後の友人でいてくれてありがとう、って」

言葉を失った。そりゃ、彼女たちは生と死の現場にいるわけだけど、そんな経験、しんどすぎる……。

「さっき、一色さんが苦しそうに病院に来たのを見て、彼女、思い出しちゃったんじゃないかな?ごめんなさいね、余計な気を遣わせちゃって」

「いえ、私が大げさに痛がってたのかもしれません」

「大げさなんてことはないのよ。お産は安全……もう神話のように言い継がれてる言葉だけど、現場の人間は決してそんなこと思っちゃいないわ。なにが起こるかわからない、危険と隣り合わせのもの」

天地さんは私を励ますように、ニッコリ微笑んだ。

「だから、一色さんみたいに異常を感じたらすぐに受診してくれる妊婦さんはママの鑑です。だって、お腹の赤ちゃんの命を守る第一責任者はママなんですもの。私たちはそんなママを応援したいのよ」

そっか。騒ぎすぎたと反省していたんだけど、ポンちゃんが異常ないなんて、自己判断じゃわからないもんね。受診してよかったんだ。

「時田さんが携わったその妊婦さんもね、うわごとみたいに言ってたんですって。『赤ちゃんだけは助けて』って。時田さんは言ってたわ。『私はあのとき、頷いてあげられませんでした。確実に助けられるとは思わなかったから。でも、頷いてあげられたら、どれほど彼女の心を慰められたかと今でも思うんです』」

天地さんが言葉を切って、優しく私を見つめた。

「……彼女、少し冷たく見えるけど、真面目で、妊婦さんの気持ちに添いたいと考えてる助産師なんですよ。悪く思わないでやってね」

私は頷いた。ショックな話に、そうするしかできなかった。

 

天地さんが仕事に戻り、部長の点滴が終わるまでの残り一時間、私はぼんやりしていた。

いろんなことが頭をよぎった。

仲良しの妊婦さんの死に立ち会った時田さん。彼女はどんな思いだったんだろう?今、どんな気持ちで助産師をしているんだろう。

赤ちゃんをその腕に抱けなかった妊婦さん。彼女の無念と祈りはどれほどだろう。遺された赤ちゃんと旦那さんは、ふたりで生きているんだろうか。

病気じゃないから、お産は安全。そんなふうにどこかで私も思っていた。

でも、実際はそうじゃない。私は今回、その一端に触れた。

「ポンちゃん、ママが守るからね」

私にできることは、ポンちゃんの命の責任者であること。産まれるまでは、私でないと気づいてあげられないこともあるはず。

母親になる覚悟が決まったかというと、わからない。でも、ポンちゃんが健康に産まれるためなら、なんでもできる気がする。

私の手を握ってくれた時田さんを、再び思い出す。メガネで三つ編みで胸が大きい、ツンツン女子。

ポンちゃんが産まれるとき、彼女がいてくれたらいいな。ふと、そんなことを思った。

 

「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから

 

 

この記事のキュレーター

砂川雨路

新潟県出身、東京都在住。著書に、『クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした』(ベリーズ文庫)『僕らの空は群青色』『ご懐妊‼』(スターツ出版文庫)などがある。現在、小説サイト『Berry’s Cafe』『ノベマ!』にて執筆活動中。


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