ご懐妊!! 第5話 五ヵ月

OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!

妊娠五ヵ月(十六~十九週目)
胎児(十九週末)…二十四センチメートル、二百四十グラム
子宮の大きさ…成人の頭大

 

五ヵ月に入って、最初の休日。帯祝いのため、私は部長と水天宮(すいてんぐう)神社に来ていた。

この時期から、戌(いぬ)の日にご祈(き)祷(とう)してもらった腹帯をつけてお腹をガードするのが、日本古来のしきたりらしい。これが帯祝い。

ちなみに今日ご祈祷してもらったサラシタイプの腹帯とは別に、普段使いの面ファスナータイプのものは、すでに部長が購入済みだ。

「うめは……じゃなかった。佐波、危ないぞ」

帰り道、石段でつまずきそうになる私の腕を、部長ががしっと掴んだ。

彼は今、私を名前で呼ぶ練習中だ。

一月の末に私たちは入籍し、戸籍上、私は一色佐波になったわけ。会社では当面、梅原のままでいく予定だ。部長は律儀に呼び方を変えているんだけど、まだ慣れないみたい。

私も『ひとえさん』とか『ゼンさん』って呼ぶべきなんだけど、つい『部長』って呼んじゃう。

まあ、結婚しても上司であることに変わりはないし、急ぐことはないのかなぁ。

お参りも終わったので、お昼にとデパートのレストランフロアへ向かう。

今日のお昼ごはんは回転寿司!

妊娠五ヵ月目に入り、最高に嬉しいこと。それは、ごはんが食べられるようになったことだ。

つわりはほぼなくなり、肉も魚も野菜も、なんでも平気!中でもハッピーなのは、白米やパンをおいしく思えるようになったことだ。

ずーっと、ジャガイモ以外の炭水化物が摂れなかった、あの日々ってなに?

ああ、お寿司、幸せ~!!

「部長~、生マグロですよ~」

「食え食え」

「塩水ウニだって~。でも一貫で六百円です~」

「ケチらず、食いたいもんを食え!腹の子の栄養にしろ!」

はい!では、お言葉に甘えまして!

お寿司をパクパク食べながら、部長と話すのは結婚式のこと。マタニティウェディングだし、もう五ヵ月で時間もない。

今考えているのは、身内だけの挙式と会社の人だけを招いた披露パーティー。

私も部長もあまりこだわりがないので、ホテルのプランナーさんにほぼお任せしている。それでも決めることは山ほどあるんだけどね。

「次の水曜日の打ち合わせ、俺は荒木不動産の接待飲みで行けない。すまんな」

「あー、大丈夫です。ドレスとか、会場のお花の話とかがメインみたいなんで、私だけで足りますよ。手配り分の招待状が月曜日には家に届くって、プランナーさんから連絡がありました」

私が手帳を取り出して、近々の予定を読み上げると、部長はオフィスで見るような真顔で頷いた。

「了解。式とパーティーは日を分けるって、社長には話してないよな」

「私からはまだです。社長はどちらも参加ですもんね」

「俺から言っておく。招待状配りは来週中に手分けしてやろう」

「わかりました」

こうして事務的な話をしていると、仕事感が抜けない……。結婚式の相談をしているのに、ちっとも夫婦の会話っぽくないよ。

部長はお寿司を食べ終わり、お茶をすすりながら言う。

「来週の金曜日は、午前半休を取ったからな」

「金曜日?」

「五ヵ月検診だろうが!おまえが忘れてどうする、アホ妊婦!」

「あぁ~、そういえば……」

お腹の赤ちゃんと会える貴重な機会を、忘れていました……。

「ごめん、ポンちゃん。忘れてたよ」

「ポンちゃん?」

私がお腹をさすって言うと、部長が変な顔で聞き返してきた。

「お腹の赤ちゃんのニックネームです。〝赤ちゃん〟じゃ、なんか他人行儀じゃないですか?」

「……ネーミングセンスがひどすぎる!俺の子があわれだ!改名を要求する!」

改名を要求って、そんなに悪いセンスじゃないと思うんだけど。

「じゃあ、なにか考えてくださいよっ!」

「待ってろ、我が子よ。今、流麗な名をつけてやる!」

「流麗じゃなくていいですよ!どうせ、お腹にいる間だけなんだから」

こんなやり取りは、ちょっと夫婦っぽいかもしれない。

結局、部長は考えすぎてニックネームを思いつかず、〝ポンちゃん〟が正式に採用となった。

可愛くていいじゃんねぇ、ポンちゃん。

まだ動きもしない、いるのかわからないポンちゃんは、たぶん十五センチくらいの大きさになっているはず。

 

金曜日の午前中、私と部長は揃って半休を取り、産婦人科に来ていた。

引っ越しに伴って転院した産婦人科は、個人運営の産院で、ベッドも十床しかない小さいところだ。ピンク色の外観に、パンジーが山ほど植わった花壇。院内はいつだってオルゴールの音が流れ、受付スタッフも感じがいい。

先生は銀縁メガネの佐藤先生。四十代半ばで、これまた優しそうな人なんだ。全室個室だし、ゆったりとお産に臨めそうで、部長と決めたんだよね。

本日は十八週と〇日。五ヵ月検診であります。

検診はまず尿検査。体重測定と血圧測定をして少々待つ。予約制なので、前の病院みたいに長時間待たなくていいのが助かる。

次は、腹位やむくみのチェックと、子宮の大きさ測定。この病院は横になるときに超音波で測るみたい。前の病院では、診察の前後に助産師さんがやってくれたっけなぁ。しかし、触っただけで子宮の大きさがわかるなんてすごいや。

五ヵ月ということもあり、超音波もお腹にプローブを当てて見られるようになった。つまりは部長の同席もOKってこと。

「じゃ、診てみましょうね」

銀縁メガネの先生がプローブを持ち上げた。うにゅーっとお腹にゼリーが塗られる。

いつも通り、超音波って最初はなにが映っているのかわからない。先生がグリグリお腹をプローブで撫でる。赤ちゃんの姿が映ったようだ。

「はい、これ背骨。で、これが心臓。弁も正常に動いてます」

銀縁先生、もう少し顔とか手足とか見たいです。というか、横にいる旦那様が見たくてしょうがないと思うんです。

口に出さずともプローブは下に移動。

「これがお顔ですよ」

映ったのは、ドクロみたいに透けた骨格だった。

おおっ、迫力ある!脳とか見えちゃって、ベビーらしくは思えない。それでも、結構感動するものだ。

「もしかして、口を動かしてますか?」

部長が画面を覗き込みながら聞く。

「はい、そうですね。じゃあ見え方を変えてみましょう」

銀縁先生が画面を切り替えた。

え!なにこれ!すごい!!

画面に映るのは、黒と白のエコー画像じゃない。セピア色の画面は奥行きがあり、中でお団子みたいなものが動いている。

わかった!『プレママさんが読む本』に書いてあった。これが3Dエコーってやつだ!いや、動いているから4Dか。

画面に映るお団子は、まだ表情はよくわからない。ただ、しきりに手らしき部分で顔を触っている。

うわぁ、すごいよ!動いてるよ!

立体的に映るという割には、余分なモコモコがあちこちについているけど、今までよりずっと鮮明にポンちゃんが見える!

横を向くと、部長が食い入るように画面を見ている。こぶしをぎゅうっと握って。たぶん、私と同じくらい感動している。

「顔、触ってますよね」

私は銀縁先生に確認する。先生は頷いた。

「指しゃぶりの練習をしてるみたいですね」

「お腹の中でもするんですか!?」

「しますよ。お腹の中で、彼らはいろんな練習をしてるんです」

「あの!先生!」

横から部長が声を上げた。

「性別は……わかりますか?早ければ五ヵ月くらいでわかるって聞いたんですが」

先生は、うにょーっとプローブを移動。画面はごちゃごちゃっとした。

「これが太ももなんですが、隠してますね。次回のお楽しみかな」

「はぁ」

部長は気が抜けたような返事をした。

彼は男の子と女の子、どっちが欲しいのかな?私はどっちでもいいんだけど……。

診察室に移動し、エコー写真をもらう。2Dと3Dを一枚ずつ。これってベストショットを選んでくれるのかな?3Dのほうは、口元に手をやるお団子ポンちゃんの姿が映っている。

「さて、一色さんは転院で、もう分娩予約されてますね。これから出産までよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

私と部長は揃って頭を下げた。

「つわりは治まりましたか?」

「はい。五ヵ月に入ったら楽になりました」

銀縁先生は私が出した母子手帳を見ながら言う。

「体重増加が、ちょっと注意かな?」

は?なんですと?注意……なの?

その場ではそれ以上は言われず、赤ちゃんは元気ですよーって話で終わった。

銀縁先生の診察を終えると、部長と一緒に隣の処置室へ呼ばれた。ここで、助産師さんの指導が入るみたい。

「あの、さっき先生に体重注意って言われたんですけど」

私は向かい合った助産師さんに言った。

メガネの助産師さんは、たぶん私より若い。ネームプレートには〝時田さゆみ〟と書かれている。

「はい。体重の増加が急ですね」

助産師、時田さんはツンとした感じで答えた。

「でも、元の体重からプラス三キロですよ。これって増えすぎなんですか?」

私は食い下がる。

「一色さんの場合は、つわりで五キロ痩せられたんですよね。それが、先月の四ヵ月検診で二キロ戻ってます。今日の時点でプラス三キロということは、この一ヵ月で六キロ増えた計算になります」

ツンツン響くなぁ。メガネで三つ編みで胸がおっきくて、ツンツンだなんて、キャラ立ちすぎじゃない?この時田さんとやら。

「妊娠期間の体重の増加は、標準体型の方で八キロから十二キロが目安です。増加幅が大きくなるのは、胎児がぐっと大きくなる後期。今からひと月で六キロも増えていたら増えすぎです」

「やっぱり、増えすぎってよくないんですよね……」

「妊娠高血圧症、妊娠糖尿病の発症リスクが上がると言われています。赤ちゃんが大きくなりすぎたり、産道に脂肪がついたりして、難産になる場合があります」

わぁ、教科書みたいに明確なお答え。

「また、産後の体型戻しが大変です」

それは……困る……!私は心の中で呻いた。

「体重は毎月の検診でチェックしますが、ご自身でも気をつけてくださいね。白米を雑穀米にするなど、栄養のバランスよく食べてください。ウォーキングなんかもいいですよ」

アドバイスまでも教科書的だ。メガネっ子助産師のご高説は終わった。

 

部長が午後イチでアポイントがあるため、私たちは外ではランチをせず、お弁当を買って出社した。

産院からの移動中、部長はあんまり口をきいてくれなかった。

私自身、まさか六キロも増えていたとは思わなかった。つわりで減ったんだし、それほど神経質に体重管理をしなくてもいいと思っていたのに。

くそー、あのメガネっ子助産師め!もう少し親身になって話してくれたら、部長の印象だって違ったはずなのに!あれじゃ、私が食べすぎで自己管理不足ってところばっかり目立つじゃない!

「じゃあ、行くぞ。俺は今日遅いから、夕飯はいい」

「はぁい」

エレベーターフロアでそれだけ言うと、部長はさっさとオフィスに入っていった。

私はトイレに寄る。

部長のことだ。これから出産まで、きっと私の食事はがっちり管理する気だろう。

カロリー計算とかさせられちゃうかも。

そんなの嫌!せっかく食べられるようになったんだから、好きなものが食べたいよ!

部長だって『食え食え』ってなんでも買ってくれていたじゃない~!

 

その晩のことだ。二十三時頃、部長が帰ってきた。

先に帰宅して、ごはんもお風呂も済ませて、ウトウトしていた私。その私の膝に、部長がばさっと雑誌を置いた。

「おかえりなさい。……なんですか?これ」

私は目をこすって雑誌を持ち上げる。妊婦御用達雑誌『エッグ倶楽部』だ。

ついに月刊誌まで愛読書に?訝(いぶか)しく、その表紙を眺めていると、部長が言い放つ。

「百五十二ページを見ろ」

言われるままにページをめくる。そこにあった特集は〝美妊婦のライフエクササイズ〟というもの。綺麗なお姉さん先生が、キャミソールにカプリパンツ姿でさまざまなエクササイズを紹介している。筋トレやヨガのポーズかな。

私は慌てて顔を上げた。

「わっ……わかりました!私、これ毎日やります!それで体重管理します!」

「バカが。生ぬるいことは言わせないぞ」

部長が冷々とした口調で言う。

「その講師がいるスタジオに、体験レッスンを申し込んでおいた。明日、行ってこい」

「へ?」

スタジオ?体験レッスン?

「マタニティビクススタジオだ。好きに食べさせて、おまえを太らせたのは俺にも責任がある。ウェアや靴、その他の費用は惜しまないから、運動してこい!」

そ、そんな……。食事のことはうるさく言われると思っていたけど、まさか運動も?予想の斜め上だ……。

上司っぽく、責任とか言わなくていいです!お気持ちだけで結構です!

私、運動なんて、ぜっっったい無理なんですけど!

 

自慢じゃないけど、私は運動が得意じゃない。でも苦手かと言われれば、そうでもない。わかりやすく言うと、四十人クラスで短距離を走らせたら、二十三番目くらい。

つまり、できなくないけれど、誇れるような運動神経は持っていないってこと。

大学時代はテニスサークルに所属していたけど、正直ほとんどテニスはしていない。遊びで少し、あとは飲み会。そして就職以来、運動していない……。

そんな私に、マタニティビクスですか?それってつまりは、エアロビクスを踊れってことだよね?

その日、私はマタニティビクススタジオのある駅で途方に暮れていた。

バッグの中にはジャージとTシャツ、内履きと、妊娠経過証明書。妊娠の経過に異常がないから運動してもいいですよーって証明書だ。

時間より少し前に行くべきだよね。きっと、いろいろ手続きがあるだろうし。

自分の意思に反し、未知の領域に足を踏み入れるこの瞬間。怖い。

運動させようとしているのは部長だ。そして、いまだに部下根性の抜けない私は、彼にびしっと言い渡されると拒否できないのだ。

ああ、どうにかしないと、この構造……。

今朝の部長の言葉を思い出す。

『ポンのためだ!頑張ってこい!』

それを言われると弱い……。

のろのろとスマホを取り出し、地図を確認しながら歩きだす。

あー、逃げだしちゃいたい。

 

そのスタジオは産院の上にくっついていた。ドアを開けると、スタッフTシャツを着たお姉さんがニッコリ笑う。

「こんにちはー」

明るい声に、私はうろたえた。

親切なスタッフ、山田さんに教えられるまま、ロッカールームでのそのそと着替える。申し込みの用紙を書いていると、前のレッスンが終わったのか、ロッカールームに妊婦さんたちがなだれ込んできた。みんないい汗をかいて、楽しそうにしている。

私は他の妊婦さんたちに紛れて、スタジオ内へ入る。床に座って用紙を書くフリをしつつ、きょろきょろと周囲を見回す。前のクラスの人も、私と同じクラスに参加の人も、みんなお腹が大きい。中にはまだうっすらお腹が膨らんでいるくらいの人もいるけど、私より週数が進んでいそう。

「こんにちはー!」

いきなり声をかけられ、飛び上がった。

目の前にはタンクトップとスリムなジャージを着たお姉さん。

「インストラクターの枝(えだ)です。よろしくお願いします!」

「ああっ、はいっ!よろしくお願いしますっ!」

雑誌に出ていた先生のレッスンは、別の曜日とは聞いていた。今日の担当はこの先生なのね……。この人も年上っぽいなぁ。

「一色さんですよね。ついていかなきゃって思わずに、楽しく気楽に身体を動かしていきましょうね。マイペースでお願いします!」

「はっ、ははあっ!」

お代官様の前に引っ立てられた盗人的なリアクションをする私。

あー!やだよー!怖いよー!

私の内心の叫びをよそに、リズミカルな音楽が流れだす。先生の前説があり、他の妊婦さんたちと一緒に、いよいよマタニティビクスがスタート!

まず、その場歩き。ヨタヨタする。後ろに下がっても前に歩いてもヨタヨタ。

……これは体力低下が理由じゃない。私のリズム感のなさが原因だ。

だって、他の妊婦さんと動きがズレているもん!ストレッチしていても、私だけ、なんか違う?

「はい!じゃあ、一歩前に踏み出してみましょー!マンボステップといいまーす!」

インストラクターの枝先生が声を張り上げる。動きとステップ名を教えてくれるんだけど、みんなみたいにスラスラ動けない。リズム感のある人や、運動を継続していた人には簡単なのかもしれない。でも、私にはしんどいんだ!

「さあ、次は弾む動作に入ります。今、お腹が張ってる人は、歩く動作でお休みしましょう」

枝先生が言って、妊婦さんたちがその場でリズムを取りだす。確かに弾む動作だ。

「それでは、走れそうなら走ってみましょう!」

え!?走るの!?

なんと、参加の妊婦さんたちがその場で走りだした。今にも産まれそうな大きなお腹の人まで、その場で駆け足をしている。

もちろん、歩いてのんびりやっている人もいる。でも、お腹も出ていなければ、お腹の張りもわからない私がのんびりするわけには……いかないような気がする……。

私は懸命に走りだした。も……もう限界……かも。

 

レッスンの終盤、私はヘロヘロのクタクタだった。クールダウンでマットに横になっても、息は上がりっぱなし。そして、一ミリも身体が動かないような疲労……。

「はーい、これでマタニティビクスのレッスンを終わりにしまーす!ありがとうございましたー!」

一時間喋りっぱなし、動きっぱなしだった枝先生の元気な言葉とともに、レッスンは終わった。

「いかがでしたー?」

マットでのろのろと着替える私に、枝先生が話しかけてきた。

「あはは、全然ついていけませんでした……」

私は力ない空笑いをする。

「最初はみなさん、そんな感じですよ。スポーツクラブでエアロビクスをやってた方や、ダンスをやってた方以外は。でも、通ってるうちに慣れちゃうんです」

慣れちゃう……。そんな日、私に来る気がしないよ……。

「つわりで体力も低下してらっしゃるでしょう。とにかく、マイペースを心がけてみてください。つらかったら、動作をお休みして歩くんです」

「あの……、マタニティヨガもやってますよね。ヨガでも痩せられますか?」

「ヨガは血流や柔軟性を高め、リラックス効果のほうが期待できます。脂肪燃焼、お産への体力アップなら、ビクスがオススメかな?」

やっぱりそうか。音楽のリズムに乗らなけりゃ、私でもできるかと思ったんだけどな。

「上手に踊る必要はないんです。楽しむことが赤ちゃんとママのためになると思いますよ」

ポンちゃんのため。それを言われると本当に弱いんです。

「運動の効果は、お産を楽にするだけじゃないですよ。腰痛や肩こりの緩和、冷えや便秘の改善にも繋がります」

便秘の改善?その言葉に、私はぴくっと反応する。

実は妊娠してからずっと、便秘がちなのだ。つわりの頃は、食べる量が減ったから当然かと思っていたけど、普通に食べるようになってもなかなか出ない。部長と同居になって緊張しているせいもあるのかも。身体も冷え冷えでいつも寒いし。

「今、赤ちゃんがお腹にいるので、内臓機能全体が少し緩んでる状態です。運動で腸の動きがよくなるんですね」

なるほど……。どっちみち、部長はここに通わせる気満々だから、私は逃げられない。それに便秘や冷えがちょっとでも改善するなら……。
私は枝先生に頭を下げた。

「これから、よろしくお願いします」

「こちらこそですよ!じゃあ、入会手続きをしましょうね」

 

その日は帰宅して、お昼にサンドイッチを食べるとすぐに寝てしまった。久しぶりの運動ですごく疲れたみたいだ。

部長に体験レッスンの感想すら言わなかったけど、スタジオに通うという結論で、彼は満足したようだ。ああ、疲れた……。

 

それから一週間少々。

私はすでに三回のマタニティビクスと、一回のマタニティヨガを受けていた。平日は会社を上がってから夜のクラスに参加しているし、土曜日も朝から参加だ。

ビクスの動きには依然として慣れていない。他の妊婦さんとは違う不格好な盆踊りになってしまう。

だけど、めげずに通っている!我ながら偉すぎ……!

実は、早速メリットがあったからというのも理由だ。それは望んでいた便秘の解消!夜のレッスンに出ると、その晩か翌朝にお通じがある。すごい。五日くらい出ないのが日常だったのに、いまや二日に一回は出る!この快適さときたら!

冷える二月だけど、前より爪先や指先が冷えなくなってきたし、もしかして、本気で運動っていいんじゃない?

平日夜のクラスで会った枝先生が言っていた。

『ビクスを続けていたママは体力があって、安産になりやすいんです。赤ちゃんも、出産時に心拍が下がりづらいんですよ』

つまりは、ポンちゃんも元気になるってこと?それならやるしかないじゃない。

なにより、これで体重管理ばっちり、ポンちゃんも健康に安産で出てきたら、部長も私のこと見直すに違いない。

現時点の私って、つわりでボロボロ。すぐにぐーぐー寝ちゃうし、食べすぎて太って、だらしないところしか見せていないもんね。

そんなわけで、本日も張り切ってスタジオにやってきた私。

あらら?階段脇の壁に張り紙がある。

【本日のレッスンは休講です】

あ!そういえば、土曜日のレッスンで枝先生がなにか言っていた……。ワークショップで休講がなんちゃら……それって今日のことだったのね。

妊娠してからぼーっとしているけど、今回は完全にボケているよ。

「あら……」

後ろで声が聞こえ、振り向くとそこにはひとりのお姉さん。ショートカットで女優みたいにぱっちりした目の人だ。たぶんそれなりに年上。

「間違えて来ちゃった派ですか?」

私は聞いた。彼女のバッグに〝赤ちゃんがいますマーク〟がついていたからだ。

「ええ、うっかりです」

彼女はおっとりと答えた。

 

帰宅の方向が同じだったので、私はその美人のお姉さんと渋谷方面行きの電車に乗った。

車内は混んではいないけど、空いた席もない。妊婦がふたりで立っていても、誰もマークを見て席を譲ったりしてくれない。だいたいそうなんだけど。

「昼間、お仕事されてるんですか?」

彼女が聞いてきたので、私は頷く。

「あ、やっぱり。平日の夜や土曜日にお見かけしたから。私も働いてるんです。パートでちょこっとだけど」

ってことは、今までのレッスンでご一緒したことがある方なのね。ビクスに真剣すぎて、全然周りを見ていなかったわ。

私はぺこっと頭を下げた。

「一色佐波といいます。まだ始めたばかりで、右も左もわからないんですが、よろしくお願いします」

「私は、樋口美保子といいます。あの、佐波さんは何週目ですか?私は二十週と二日です」

「あっ、近い!私、十九週三日です!」

彼女のお腹をつい見てしまう。

キルトのコートの下は、一週違うだけなのに、すでに丸く膨らんだお腹。

「うふふ。もうお腹が出てきちゃって」

彼女が恥ずかしそうに笑う。可愛い人だな~。

「佐波さんも、もしかして他院出産ですか?」

私たちが参加しているスタジオの妊婦さんたちの多くは、併設された産院で出産する。だから、他院の利用者はレアなのだ。

「ええ。知ってるかなぁ、光良レディスクリニックです」

「私は武州大学病院。もしかして、おうちも近いかも……私たち」

「小田急の代々木上原駅です!」

「あ、お隣だ」

わお、運命的!私たちは嬉しくて、思わず笑ってしまった。

「よかった。近くにお友達も妊婦仲間もいなくて、ちょっと不安だったんです」

「わっ、私もですよ!美保子さん……出産までよろしくお願いします!」

「うふふ。むしろ産後もよろしくお願いします」

これはもしや……初ママ友ってやつですか!?ビクスが結んだ縁だ。

 

美保子さんと連絡先を交換してから帰宅すると、部長がひとりでウィスキーを飲んでいた。

「おつまみでも作りましょうか~?」

「なんだ、おまえ。上機嫌だな。てっきり『ひとりで飲んでずるい!』って言われるかと思った」

「言わないですよ。ふふふ。お夕飯まだなら軽く作りますからね~」

「変な妊婦め……」

鼻歌交じりの私を気味悪そうに見て、彼はウィスキーグラスを傾けた。

 

この日をきっかけに、私は美保子さんと親しくなった。彼女は私より十歳上の三十七歳だ。

家は歩いて二十分くらいの距離と、ご近所さんで驚いた。産院は違うけど、週数は近いし、なにより彼女の性格がとっても素敵なのだ。おっとりしていて、いつもにこやかで、女優みたいな顔をしているのに気取らない、控えめな人。

きっと、お育ちがめちゃめちゃいいんだと思う。そういう品のよさがある。

スタジオで美保子さんと喋るようになったら、自然と他の妊婦さんとの距離も縮まってきた。彼女の持つ癒し系な雰囲気が、周りに人を集めるんだろうなぁ。

ビクス仲間が増えてきて、私は俄然やる気を出した。一番へっぽこだけど、最初に感じた怖さや孤独はもうない。

よっしゃ、やるぞ~!

「ねえねえ、一色さんと樋口さんは他院でしょ?」

今日もレッスン前に美保子さんと喋っていたら、よく一緒になる斎藤さんという妊婦さんが声をかけてきた。

「うん、そうよ」

美保子さんがおっとり回答。

「ってことは、普通分娩だよね。怖くない?」

「うーん、怖いといえば怖いけど……」

美保子さんが首をひねる。私はなんのことかわからないので、黙って聞いていた。斎藤さんが不安そうに顔を歪める。

「主人が地方転勤になりそうで……そっちって、無痛分娩を扱ってる病院がないのよ!私、普通分娩が怖くて……どうしようって悩んでるの!」

「それは大変ね。斎藤さん、今、二十五週でしょう。ご主人には先に行ってもらって、ご出産が終わるまで東京にいらしたら?」

美保子さんが親身な声で言う。私は余計、なんじゃらほいって表情。

「ねぇ、一色さんも普通で産むんでしょ?無痛は考えなかった?」

斎藤さんに話を振られ、私はビクッと肩を揺らした。

「あの……無痛ってなんですか?」

「え!知らないの?」

斎藤さんに叫ばれ、私はもう一度ビクッと肩を揺らす。

知らない……そんな単語。産み方のことでいいのかな。普通に産む以外にあるの?帝王切開の仲間?

「無痛分娩っていうのは、出産の途中で麻酔を打つの。それで、出産の痛みをなくすっていう分娩法よ」

見かねたのか、美保子さんが注釈してくれた。斎藤さんが真剣な顔で力説する。

「そう、この病院は無痛分娩で有名なの!無痛なら産後の回復も早いし、穏やかに痛くなく産めるんだから!金額的にはちょっとするけど、死ぬほど痛いのと比べたら、絶対こっち!」

つまり、このスタジオに参加している人のほとんどが〝痛くなく産む〟ってこと?な、なにそれ。そんな画期的な方法を、今まで私、知らなかったの?

 

マタニティビクスが始まっても、頭の中を〝無痛分娩〟がぐるぐる回る。

痛くないって、本当に?今の産院やめて、ここで産もうかな。ここなら車で一時間以内に来られるし、ギリギリ大丈夫じゃない?お産が痛いのは当然だと思っていたけど、医療の力でそれが回避できるなんて素敵すぎる!

とはいえ、聞いてみたら分娩費用は約二倍……。それに、痛いのが嫌って、もしかして甘えている?

 

「先生、私も無痛分娩にすべきですかねぇ」

レッスン後に話しかけると、枝先生が私の顔を覗き込んだ。

「一色さんは他院でしたね。無痛分娩が羨ましくなっちゃいましたか?」

「……なっちゃいました」

私は頷いた。

「でも、痛いのが怖いから……なんて、ただの甘えですよね」

枝先生が、ふふっと笑った。

「私は、妊娠出産に対する思いは、女性の数だけあると思っています。そして、どの思いもむやみに否定したくありません」

小柄な先生が、胸を張ると大きく見えた。信念のある人の目は綺麗だ。

「いろいろな考え方があっていいんだと思います。痛いのが嫌な人、病気でやむを得ずという人、高齢で体力的に安心なお産を選びたい人……。逆に、とにかく自然に産みたい人もいます。助産院や自宅を出産場所に選ぶ人。医療介入は一切拒否なんて人もいます」

枝先生は続ける。

「一色さんのバースプランはどんなものか、考えてみてください。きっと、今の産院でもそんな話があると思います。どう産みたいのか。どんなふうに赤ちゃんと対面したいのか。出産は出会いのセレモニーです。でも気張らず、自由に考えていいと思いますよ」

「自由に……」

「ちなみに私は、普通分娩でふたり産んでます。痛くなかったとは言いませんけど」

え!先生、お子さんいるの?そんなにスレンダーなのに!

うーん、私のお産かぁ。今まで主体的に考えてこなかった気がする。

それは、私には産みたいように産む権利があるってことだよね。

ポンちゃん、どんなふうに産まれてきたい?ママが決めてもいい?

 

「無痛に変えるの?」

帰り道の電車で美保子さんが聞いてきた。

彼女はにこやかで、私がどんな選択をしても、きっと笑顔は変わらないんだろうなぁと思った。

「うーん。普通分娩で産んでみようかな」

私は答えた。

「痛くないのは魅力的だけど、〝普通に平凡に〟痛い思いして、この子をお迎えしたい」

思いもかけず授かった我が子。だからこそ、普通に平凡に。

きっとそれが、私のためにもなる……気がする。

「でも、あんまり痛かったら、ふたり目は無痛にする!」

「それって、いい案だわ」

美保子さんが美しく微笑んだ。

 

「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから

 

この記事のキュレーター

砂川雨路

新潟県出身、東京都在住。著書に、『クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした』(ベリーズ文庫)『僕らの空は群青色』『ご懐妊‼』(スターツ出版文庫)などがある。現在、小説サイト『Berry’s Cafe』『ノベマ!』にて執筆活動中。


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