ご懐妊!! 第9話 九ヵ月

OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!

妊娠九ヵ月(三十二~三十五週目)
胎児(三十五週末)…四十六センチメートル、二千三百グラム
子宮の大きさ…二十八~三十一センチ

 

「ただいま~」

誰もいない家の玄関を開けると、とりあえず買い物の荷物を置いた。

壁に左手をつき、右手でかかとからローヒールのパンプスを外す。よっこらしょと、上がりかまちに足を載せ、膝を曲げながら床の荷物を取る。

この一連の動作。おわかりいただけただろうか。

お腹がつっかえて大変なんだよ!

前かがみはもちろん、足元も作業をしようと思ったら全部大変だ。靴下を履くのも、足の爪を切るのも。床に置いた買い物の荷物だって、なるべくお腹を圧迫しないように、かつ、腰に負担がかからないように取る。

他にもお腹が出っ張っている弊害として、お風呂掃除は大変だし、洗い物はお腹だけびしょ濡れになるし、オフィスのデスクとデスクの間につっかかるし……いろいろ大変!

さらに三十二週になってから、ついに腰痛を感じるようになってしまった。

妊婦さんの多くがなるという腰痛。マタニティビクスの枝先生いわく『赤ちゃんが大きくなるので、背骨が前に引っ張られて痛くなったり、骨盤が開いていくことによって痛んだりするんですよ』だそうです……。

ワーオ。それって、どうにもできないじゃん。

ある程度は我慢しつつ、運動で血流をよくしてあげたり、できる範囲でストレッチしたり、腰に負担のかからない動作を心がけたりするのが得策らしい。

はあ、腰痛なんか、大学時代にテニスで傷めたとき以来だ。

お腹の大きさも腰痛も、出産まで二ヵ月近くあるのに、今後どうなっちゃうんだろ。ここにきて少々不安な一色佐波、二十七歳……。あ、もうちょっとで二十八歳……。

冷蔵庫にしまうものだけ片づけると、ソファにごろっとひっくり返った。

あぁ~楽~。他の妊婦さんは『横向きでないと眠れない』なんて言うけど、私はまだ仰向けが楽だ。

部長は、社長と森部長と飲んで帰るって言っていたし、私もそんなにお腹が空いていないし、夕飯の前にちょっと休憩しちゃおう。ごはんは食べますよ。ポンちゃんの栄養だしね。

でも、最近そのポンちゃんが胃を蹴るから、食欲が湧かないこともあり……。

 

次に私の意識が戻ったのは、玄関に鍵が挿し込まれる音でだった。

「うあっ、寝落ちしてた!」

思わず呟くと、ポンちゃんも起きたのか、お腹の中で動きだす。時刻は二十四時近い。ざっと四時間近く寝落ちしていたことになる。

部長が玄関から歩いてくる音。がちゃっとリビングのドアが開いた。

「おい!佐波!」

『ただいま』はなしですか。といっても、この声の大きさは酔っていると見た。言っても無駄ですね。

「おかえりなさ――」

言い終わる前に、部長が目の前にいた。

ソファから身体を起こしかけた私の肩を、押し戻す。必然、ソファにボスンとひっくり返る私。

彼がソファに膝をつき、私の上に四つん這いの姿勢になっていた。

ちょっ!なっに、これ!私が妊婦じゃなかったら、イケメンに押し倒される女子という胸キュンのシチュエーションじゃないですか!

「ゼッ、ゼンさん!」

動揺で声が上ずる私に、部長は色っぽい酔眼を向ける。

「ポンは今、動いてるか?」

「はっ、はぁ!動いてますけど……」

「腹を見せろ!」

言うなり、彼が私のチュニックをまくり上げた。

「ぎゃあああ!なにするんですか!!」

薄いチュニックの下は、すでに腹帯も外した生お腹。

部長は私の生腹をもそもそ触りだす。私は動揺を通り越して、パニック寸前だ。

「ゼンさんっ!部長!なんで触ってるんですか!」

「おい、ポン、ちょっと蹴ってみろー」

部長は私を無視して、お腹と会話中。聞きつけたのか、ポンちゃんが本当にキックする。

彼は、もこりと盛り上がったお腹をぎゅっとつまむ。お腹を挟んで、ポンちゃんの足だか手だかを掴みたい様子だ。

「おかしい。聞いた話と違う」

「ななっ、なにがですか?」

「森部長の家は、赤ん坊が奥さんの腹を蹴ると、はっきりと足や手のかたちが見えたらしい。だけど、おまえのお腹は盛り上がるだけで、かたちまではわからない」

部長は私にまたがったまま、心底不思議そうな顔をしている。

「そっ……そりゃ、脂肪の薄い妊婦さんなら、もうちょっとわかりやすいんじゃないですか?私は割と蓄えてますもん」

五ヵ月のとき、特にね、と自嘲気味に苦笑いしてしまう。

「言われてみれば、森部長の奥方は細身だな。なるほど、佐波の腹じゃ無理なのか」

酔っているとはいえ、失礼なことを言う。

「わかったら、どきなさい!」

珍しく私に怒られ、部長はすごすごと私の上から退散した。

水を飲むと、彼は少々正気に戻ってきた様子だ。着替えながら、ちらちら私を見ている。私が怒っているか窺っているのだ。

「怒ってないですよ!」

先回りして言ってみる。

「声が怒ってる」

部長が呟く。あー、めんどくさい!

「怒ってません!私、夕飯まだなんで、お茶漬けで済ませちゃいますけど、ご一緒しますか?」

相変わらずツンケン言う私に、部長が歩み寄ってきた。

「ご一緒します。……驚かせてごめんなさい」

子どもか!と思いつつ、その様子がちょっと可愛かったので、なんとなくほだされてしまう。部長、顔がいいの反則です。

結局、私たちは深夜に仲良くお茶漬けを食べることとなった。

「こんな時間に食べていいのか?」

部長がわさびを大量に溶きながら言う。

「私的には食べたくないですけど、ポンちゃんが、お腹減ってるとめちゃくちゃ蹴るんですもん」

「わかるのかな。血液に栄養が足りないって」

「さあ……。でもこの子、お腹減ったらキレるタイプみたいですよ」

「誰に似たんだ」

こちらに向けられた部長の視線が、完全に犯人は私だと言っているので、私もしれっと答える。

「ゼンさん」

「俺に罪をなするなよ!どっちかっていうとおまえのほうが食い意地張ってるだろ」

わははと笑う私は、確かにお茶漬けの上に鮭フレークは載ってるわ、梅干は載ってるわ、あげくキムチまで横にスタンバイした節操のない食べ方をしている。

うーん、私似ですかね。

部長の実家へ帰省して以来、私たちの距離はぐっと縮まったように思える。彼の心のわだかまりが解けたせいだろうか。

彼は私に対して、よりくつろいだ表情を見せるようになった。無防備に笑ってくれたり、たまに『もしかして甘えてるのかな?』といった態度を見せたりする。

今日みたいな酔っぱらいサプライズも、彼なりに気を許してきているってことなんだと思う。めちゃくちゃ驚きましたけど。

「ゼンさん」

私もふたりきりのときは、彼を名前で呼ぶようになった。

心の中ではまだ部長って呼んじゃうのは仕方ない。こっちのほうが慣れているし。

「なんだ」

「ごはん粒ついてる」

私が自分の頬を指差してみると、部長は「ん」と顎を突き出すような仕草。それって、取れってことかしら?

手を伸ばし、彼の左頬からごはん粒を取った。さすがに恥ずかしすぎるので、パクッとはしなかった。

でも、酔っている部長が、恥ずかしくなることをさらっと言う。

「いいな。新婚って感じだな」

私は今さら頬を熱くしながら、「そりゃ、そーですわ」とごまかすことしかできないのだ。

私たち、予定通りじゃないか。責任を家族愛に変えていく計画は、現時点では、うまくいっている気がする。

だって、今の私たちには、穏やかで優しい相手への気遣いがある。父として、母として、思いやりを持ち始めている。

だから私の感じるドキドキは、胸の奥にしまっておこう。

部長と仲良くなればなるほど、私たちのスタートが恋ではなかったことが悔やまれる。私は、どんどん彼を好きになってしまっているから。

家族としてだけではなく、女としても彼に甘えたい自分がいる。それは、私たちの目指す方向性とは違う気がする。

あーあ。妊娠しなければ、部長と暮らすことなんてなかっただろうけど、こんなに好きになっちゃう未来がわかっていたら、先に『好きです』って言っていたよ。

……なんて勝手な想像をしていたら、お腹のポンちゃんが、ドカッと大きく動いた。

「あ痛っ!」

「なんだ?大丈夫か?」

部長が心配そうな顔をしているので、私は笑顔になった。曇った表情をしていちゃいけないね。

「ポンちゃん、きっと栄養が入ってきて嬉しいんですよ。蹴りました」

「忙しい女だな。ポンは」

私たちの距離は、これでいい。このくらいが一番いいんだ。

 

職場では、不動産担当グループに新しいメンバーが加わった。

日笠庄司さん、三十五歳。物静かで背が高いこの人は、私の仕事を引き継いでくれるグラフィックデザイナーなのだ。

しかし、私と夢子ちゃんふたりでお菓子を食べながら仕事をしていたスーパー能天気島に、日笠さんみたいに寡黙な年上の男性が入ってくると、妙な緊張感を覚えずにはいられない。たとえるなら、お花畑に野武士が舞い下りちゃった感じよ。

「ウメさぁん、なんかあの人怖い~」

夢子ちゃんが人見知り全開なのは、日笠さんがあまりに喋らないのと、あまりに仕事ができすぎるからだろう。指示した内容はそつなく素早くこなし、空いた時間は自ら仕事を見つけ、さくさく進めてくれる。

「すごいですね」

私も褒めてみたけれど、どうも彼の心には響かないらしい。聞こえるか聞こえないかの声で、「どうも」と返ってきただけだ。

こりゃ、仕事だけなら引き継ぎに二週間はいらないぞ。

不安材料があるとしたら、私がいなくなったあと、チャラチャラゆるふわ夢子とフジヤマハラキリ武士の日笠さんがうまくやれる保証がないってこと。

 

初日は何事もなく、仕事終了。

翌日だ。私たちに降ってきたのは、あの丸友不動産の案件!なにを隠そう、私と部長が〝こう〟なってしまった原因だ!

約半年ぶりの物件丸ごと依頼は、私と日笠さんにすべてが託されることとなった。

『頼むから、おまえは無理しないでくれ』

今回もこの案件の中心を務める部長は、家では私にそう言う。でも、職場で同じ態度はできない。

妊婦で徹夜はさすがにマズイし、体調的に安定しているとはいっても、九ヵ月のお腹は大きい。

ひとりの身体じゃないのはわかっている。大丈夫、今の私には強~い味方、日笠さんがいる。

引き継ぎも兼ねつつ、私と日笠氏はパソコンにくっつきっぱなしになったのだった。

そして今日は木曜日、私と日笠さんは残業中だ。他の案件でてんてこ舞いだった夢子ちゃんも、自分の仕事を片づけ次第、手伝ってくれている。

ああ、わかっていたけど、やっぱりここの案件はきつい。妊婦でなくとも音を上げたい。

私はオフィスチェアにそっくり返った。

あー、お腹、張る~!疲れてくると、どうしても張るんだ!

すると、初めてのことが起こった。日笠さんが自分から喋ったのだ。

「あの、休憩にしませんか?」

「え?あ、はい!」

「やったぁ。休憩、休憩」

 

夢子ちゃんがデスクから躍り上がる。

「なにか夕飯を頼みましょうか」

日笠さんが店屋物のリストを持ってきて言った。

蕎麦屋のメニュー……そそるなぁ。

「僕、海老天蕎麦にします。梅原さんと山内さんは?」

名前をきちんと呼ばれたのも、初めてかもしれない。当たり前のことだけど、日笠さんが私たちの名前を呼んだことに、奇妙な感動すら覚える。そのくらい、コミュニケーションの希薄な人だったから……。

「じゃ、私、冷やしたぬき」

夢子ちゃんが嬉しそうに言う。

「きつね蕎麦、ミニカツ丼付き」

私は疲れから思わず、最高にボリューミーなオーダーをしてしまう。

ふっと笑う声に、私と夢子ちゃんは一斉に振り向いた。

な、なんと!あの日笠さんが笑っているではないですか。

「いや、すみません。妊婦さんってお腹が減るんですよね」

笑ってしまったことを恥じるように、日笠さんは咳払いした。

電話で注文を終え、一旦仕事に戻る。二十分くらいで、注文の品がオフィスに届いた。待ってましたと、応接スペースに移動して食べ始める私たち。

「うちの姉が昨年出産したんです」

再び日笠さんが口を開いた。

「あら、そうなんですか」

「四十歳初産で、高齢出産でした」

国の定める高齢出産は、三十五歳からだ。

「姉は、なんというか、呑気というか無神経なタイプなので、体重増加なんてなにも気にしないで食べまくってたんです」

「いやぁ、お姉さんの気持ち、わかりますよ。お腹減りますもん」

私が言うと、横から夢子ちゃんが口を挟む。

「ウメさん、この前、デスクに隠してたチョコを部長に取り上げられてましたもんね」

言うなよ、そんなこと!恥ずかしいなぁ!

日笠さんが微かに笑い、続ける。

「うちの姉はちょっと深刻なことに、妊娠中毒症……あ、今は妊娠高血圧症っていうんですよね。それになってしまいまして。結局、九ヵ月目に緊急入院で、帝王切開で産みました」

「あらまー、大変でしたねぇ」

私の反応は近所のおばちゃんみたい。体重管理中の私だって他人事じゃない。

「本人はケロッとしてました。『食べたいもの食べてただけだもん』って」

「それは……豪快なお姉様ですね。何キロくらい体重増えたって言ってましたか?」

「本人は頑なに言いませんでしたけど、義兄が母子手帳を盗み見たところ、二十二キロ増だったそうです」

ポカンとする私。横から夢子ちゃんが「それってすごいんですか?」と聞いてくる。

「普通の倍くらいかな?」

「へー!すごーい!」

夢子の反応、軽っ!ま、実感ないよね……。そうだよね。

「幸い、産まれた甥っ子は元気ですから、よかったです」

「いやぁ、日笠さんのお話を聞いて、運動続けなきゃダメだなあって感じました」

私はミニカツ丼を食べながら反省する。

ポンちゃんのため、体重増加は適正で止めたい。でも、食べたいもの全部我慢はきつい。それなら運動しながら、少しでも食べたいものを食べられたほうがいいよね。

「甥っ子ちゃん、可愛いですかぁ?」

夢子ちゃんが聞く。すると、日笠さんがふわっと笑ったのだ。心の底から湧き上がる優しい笑顔だ。こんなふうに笑える人だったのね!

「可愛いですね。僕はこの年まで赤ん坊に触れる機会がなかったので、正直、甥っ子を抱っこさせてもらったときは感動してしまいました」

硬派で寡黙な武士のふんわり笑顔は衝撃的だった。いや、むしろ好感度がだいぶ上がった気がする。

「ってことはぁ、日笠さんは奥さんやお子さん、いないんですねぇ」

夢子ちゃんが若さに任せて無遠慮に聞く。日笠さんは苦笑いで頷いた。

「僕はコミュニケーションが下手なので、仕事も対人関係も、うまく回せないんです。女性と付き合っても、大抵向こうにつまらない思いをさせて、振られてしまいます」

「もったいない!日笠さんみたいなイケメンを振るなんて、どんな女だろ!」

そう言ったのは夢子ちゃん。あれ?なにその好反応。

日笠さん本人は照れ笑いしていた。素で照れ笑いする純朴三十代男性。いい人ではないですか!今だって退屈しないように話題を振ってくれたし、仕事はできるしね。

なんだ、私が産休に入っても心配ないなぁ。そんなことを思いながら、夕飯休憩を終えたのだった。

 

残業を終え、二十二時過ぎに会社をあとにする。玄関フロアを一歩出ると、歩道で部長が待っていた。

「あれ?直帰じゃなかったんですか?」

「打ち合わせが近くだったからな。会社に寄ろうかと思ったら、ちょうど電気が消えたのが見えたから、ここで待ってた」

私がまだいると踏んで、会社に寄ってくれたんだ!

思いがけず部長に会えたのが嬉しくて、犬のようにまとわりつきたい気分になった。もちろん、やりませんけど。

そのあと新宿駅で、夢子ちゃんと日笠さんと別れる。改札前まで、私と夢子ちゃんと日笠さんは、明日の仕事の相談を和気藹々としていた。デザインチームの連帯感がぐっと増した気がする。

陽気な気分を引きずって、部長と電車に揺られる。最寄り駅まではそれほど遠くないし、残業の割に楽しかったから立っていても平気だ。

「ずいぶん、仲良くなったんだな」

部長が車窓を眺めながら言った。

「日笠さんとですか?」

「他にいないだろう」

「さっき、ごはん食べながらいろいろ話せたんです。口下手だって本人は言ってましたけど、頑張って馴染もうとしてるのか、結構自分から喋ってくれて」

「……ああ」

取っつきづらそうに見えた日笠さんの正体は嬉しい発見だった。いい報告として、部長に伝えたけれど、彼は気のない返事だ。

「あんな武骨な感じですけど、笑うと親しみやすいんですよ。可愛い顔してるっていうか。夢子ちゃんなんか、明らかに態度変わってましたもんね。家の方向も一緒みたいだし、今も話しながら帰ってるんじゃないですか?」

「山内はいい。おまえは……」

そこまで言いかけて、部長は話をやめてしまった。

私は頭の中がハテナでいっぱいになってしまう。なんのこっちゃ。

最寄り駅で降りても彼はだんまりで、私の前をさっさと歩いていってしまう。

「あ!ゼンさん待って!パンと牛乳切れてるんで、コンビニ寄ってもいいですか?」

私が声を張り上げると、ようやく歩調を緩め、駅前のコンビニへ先に入っていく。

なんなんだと思いつつ、あとを追う私。

カゴに目当てのものを入れ、ついついスイーツコーナーで立ち止まる。

いえいえ、今夜なんて食べませんよ。でも明日の朝なら、罪が軽いような……。

「プリン買いませんか?私、明日食べようと思うんですけど」

ひとりで買うのもなんなので声をかけてみるけれど、部長は首を横に振るだけだ。

なんだよ!感じ悪いなぁ!

すぐコンビニを出て、家路を歩き始めると、彼が口を開いた。

「あまり残業しなくていい。周りに任せて、のんびりやれ」

「そうしたいのもやまやまですけど、やっぱ引き継ぎ兼ねてますし。私も産前最後の仕事だと思うんで、頑張らせてください」

「ひとりの身体じゃない。ポンを守ることを優先してくれ」

「重々承知してますって。それに、前はひとりでしたけど、今は日笠さんがいますから!頼りになるんですよ!仕事、すっごいできるんです」

部長が明らかに嫌な顔をした。

「どうでもいいけど」

一度、言葉を切ってから、振り向いて私を見据える。

「引き継ぎだからって、ふたりっきりになるなよ!」

互いの顔を見て、私たちの間に妙な沈黙が流れた。

え?はい?うーんと、これはもしかして?もしかしますと?

「ゼンさん、もしかして嫉妬してます?」

私の頭の悪いところは、嬉しくなると全部口に出してしまうことだと思う。

部長がギロッと私を睨んだ。いい男だから、眼力強くて迫力あるんだ。

「するか!バカ!」

でも、私もめげない。妊婦になって強くなったんだから。

「またまたぁ。女房が他の男と仕事してると心配ですか?えへへへへ」

「うるさいぞ」

「意外です~!ゼンさんでも嫉妬してくれるんだ~」

「自惚れるな!なんで、おまえが男と喋ったくらいで妬かなきゃならないんだ!」

自惚れ……。あ、今のは割とダメージ……。

ですよね。部長が私を好きっていう前提がないと、嫉妬って成立しない。

私が黙りこくってしまったのに気づき、彼が顔色を変えた。苛立ちではなく、失敗したという表情になる。

「佐波」

「すみません。自惚れてました」

小さな声で言う私の手を、部長がぎゅっと握った。そのまま手を繋いだ状態で歩きだす。

「いや、さっきの言葉は取り消させてくれ」

私は横を歩く部長を見上げる。彼は夜目にもわかるくらい、動揺した顔をしていた。

「自惚れていい。おまえが日笠さんと仲良さそうに見えて、少し……少しだけ妬いた」

「ゼンさん……」

「他の男を簡単に褒めないでほしい」

低い声で言われた言葉は、寂しげに響く。私は胸を押さえた。

胸がめちゃくちゃ痛い。苦しい。

「はい」

返事をして、部長の腕に自分の腕を絡める。腕を組んだはいいけれど、ちょっとお腹が邪魔みたい。ポンちゃんがポコポコキックをする。部長が笑った。

「ポンのキックが腕に当たる」

「タイミングよすぎ」

部長が笑うと私も嬉しい。きっと、恋ってこんなものだった。相手のひとことに傷ついて、相手のひとことに有頂天になる。絡めた手の温度が愛しくて、胸がぎゅっと苦しくなる。

「佐波、今週末、誕生日だよな」

私は頷いた。土曜日が二十八歳の誕生日だ。

「マタニティビクスは休みにして、一日空けてくれ」

一日?もちろん、いいけれど。

部長が言ったのはそれだけだった。

なんだろう。サプライズしてくれるのかな?やめやめ、こういうことは想像しないほうが、きっといい。

すでに遅い時間で、私たちはくっついて家路を急ぐのだった。

 

 

部長に指定された土曜日がやってきた。私の二十八歳のバースデーでもある。待ちに待ったこの日、私と彼は車で朝六時に家を出発した。

早すぎませんか?と思いつつ、遠出するのかもしれないと身構える。

部長は行き先についてなにも言わない。今日はこんな感じで、彼のエスコートに従うみたい。

平気平気。なにかあっても、母子手帳は持っているし、入院セットは玄関に用意してあるから、部長に取ってきてもらえる。まだ三十四週だし、お腹も張っていない。

彼の運転で到着したのは、まさかの場所だった。

「おおー!ここですか!」

思わず歓声を上げてしまう。部長が連れてきてくれたのは、意外や意外、有名なテーマパークだった。

「どっちですか!?」

高速から降りて、すでに私のテンションはマックスだ。はしゃいで聞くのは、併設されたふたつの施設のどちらに行くのかってこと。行き先が想像つかなかった分、すごく嬉しい。

夢とファンタジーのテーマパークデートっていうのが、最高に部長のキャラと合っていないけどね!

「今日は海がテーマのほう」

「おおー、いいですね!私、オープンしたばっかりのときに行った以来です!ゼンさんは?」

「俺は今日が初だ。どちらも行ったことない」

じゃあ、なんでまたこんなところに?自分が来たくなったわけじゃ……ないよね?

「このテーマパークはベンチが多いんだ。腹が張ったら、すぐ座れたほうがいいだろう?」

「ええ、まあ」

「妊婦でも乗れる乗り物は調べてある。どこのなにがうまいとか、ショーはどこで観るとかは、和泉さんと山内に聞いておいた」

相変わらずの段取りニスト!和泉さんと夢子ちゃんにまでお知恵を拝借したなら、ふたりのニヤニヤ笑いには散々晒されたはずだ。それを耐えて……偉いよ、褝くん!

部長は駐車券を受け取って、車を進める。

「考えてみたら、用事で出かけることはあっても、デートっぽいことはしたことなかったからな。こういうところは嫌いか?」

「大好きですよ。ここ何年かは来る機会がなかったんで、嬉しいです」

部長、もしかして私を楽しませるためだけに、ここを選んだの?デートっていったら遊園地だろ的な?……その、割と初心っぽいところが、ぐっとくる。

「ゼンさん、私、結構体調いいんで、今日は思いっきり遊びまくりましょう!」

「いや、それは油断禁物だ。腹が張ったり、痛くなったりしたらすぐに言え」

「ラジャー!」

駐車場に車を停めた時点から、世界はすでに夢の国。否応なしに気持ちが高まる。

ゲートを通り、メインキャラクターを模した噴水が見える。他にも人気キャラクターのモチーフがある。

きゃー!うーれーしーいー!

若い女の子たちが持ち歩いている、人気キャラクターのぬいぐるみを指差す。

「ゼンさん!あのクマのぬいぐるみ買いましょう!みんな持ってるやつです!」

「は?おまえが、ああいうものを欲しがるとは思わなかったな」

確かに、普段の私はぬいぐるみにキュンキュンくるキャラじゃない。ぬいぐるみ持って園内回るとか、邪魔じゃない?並んでまで買う?……って思っちゃうタイプだもん。でも、妊婦脳は少し違う。

「ポンちゃんがあのクマ抱いてたら、可愛いと思いませんか?」

「……気が早いぞ」

なんて言いつつ、一色褝くん、その表情は絶対想像しているね。一歳半くらいのポンちゃんがあのクマを抱えてヨチヨチ歩く姿を。

「まあ、買うのは反対しない。その前に、妊婦でも乗れる乗り物のパスを取ってこよう」

「はいはい!アトラクションは楽しみたいので賛成です!」

私たちは、園の奥に向かって歩きだした。お腹は重いけど、足取りは軽い。

 

 

その日、私たちは夕方まで夢の国を満喫した。ハードじゃない乗り物はいくつか乗れたし、目当てのぬいぐるみも買えた。ショーは好きなキャラクターが来る位置で観られたし、おいしい限定フードは片っ端から食べた。

テーマパーク内は広い。九ヵ月の妊婦には、さすがにこまめな休憩が必要だった。私たちは頻繁にお茶をし、ベンチに腰かけ、並ばなくても乗れる船やトレインを移動手段に使った。

一番面白かったのは、大きな音が出る体験型アトラクションで轟音が起こった瞬間、お腹でポンちゃんがビクビクッと動いたことだ。……どうやら彼女、すごく驚いたみたい。

お腹の中で一丁前にビビるポンちゃんが愛おしくて、私はアトラクションに乗っている間中、お腹を撫でていた。『怖くないよ~。ママがいるよ~』なんて呟きながら。

私、母になるんだなぁなんて、妙に実感した瞬間だったりする。

日が高いうちに私たちはテーマパークをあとにした。帰り道はそれなりに混んでいたけれど、楽しかったせいか、渋滞も全然苦にならない。

「ポンちゃんが産まれたら、一緒に来ましょうね」

「いくつになったら、ポンも楽しめるかな」

「最初はわけわかんないか~。小さいうちはすぐに疲れちゃいそうだし、今日みたいに長居はできないかもしれないですね」

「でも、連れてきたいな。女の子はこういうところが好きだろう。喜ぶぞ」

きっと部長は、ポンちゃんが喜ぶなら、どこへなりともお供するんだろうな。もれなく親バカってやつになっちゃうんだろうな。
そして、私はそんな彼をまた好きになってしまうんだ。

好きの感情は、嬉しくて、少し苦しい。

私はたぶん、無償の愛を注がれるポンちゃんに嫉妬してしまうだろう。

「佐波、夕飯もこのまま外だが、ポンもおまえもまだ体力は残ってるか?」

「え?あー、はい!元気ですよ!ねー、ポンちゃん?」

私はお腹に声をかける。ポンちゃんは寝ているのか動かない。ま、お腹も張らないし、問題ないでしょう。

都内に戻ると、部長の愛車は有楽町近辺へ向かう。皇居近くの由緒ある有名ホテルの駐車場に入っていく。

え?夕飯って?ホテルでディナーですか?

たたた、たぶんだけど、ここでフレンチのコースなんか頼んじゃった日にゃー、結構な金額を請求されちゃうんじゃない!?そりゃ、記念日ですけど、いいの?

ひとり不安な私をよそに、部長はすいすい車を停めるのだった。

 

 

えーと、先輩の謝恩会で来たことあるなぁ~。なんて思いつつ、完全に気後れしながらホテルのロビーを歩く私。

こんなハイクラスなホテル、一日歩き回って汗まみれの妊婦がふうふう言いながら、闊歩していていいの?ドレスコードはない?

私があたりを見回している間に、部長はさっさとフロントへ。戻ってきた部長の手にはキー?ま、まさかのお泊まりですか?

「一度、部屋に行くぞ」

部屋はさすがにスイートじゃなかったけど、高級ホテルだけあって、すっごく豪華でクラシカルな造りだった。

部長が私の手に、ドサッと紙袋を渡す。中には私のお気に入りのワンピースとパンプスが入っていた。

「着替えてこい」

びしっと言い渡す部長。おお、抜かりないですね。

私が衣装チェンジをして、メイクを直して戻ると、部長もすでにシャツとスラックス、手には夏用ジャケットのスタイルに着替えていた。

着替えが済むと、部長はさっさと部屋を出てしまう。慌ててあとを追う私。

そのまま、想像した通り、ホテル内のフレンチの店へ向かった。

席に案内されてもまだ落ち着かない私に、部長がワインリストを見せる。

「ワイン一杯くらいなら飲んでもいいって話だぞ」

「『エッグ倶楽部』情報ですか?」

「まあな」

ワインなんて、妊娠前に飲んだっきりだ。律儀に禁酒を守り通してきたのは、ホルモンのせいか、お酒を飲みたくなかったからなんだけど、こうしてお高いワインリストを見ていると食指が動くなぁ。

「じゃー、一杯だけ。銘柄はお任せします。あんまり高くないのにしてくださいね」

「ここまで来てケチくさいこと言うな。一杯ならいいもの飲め」

部長は値の張る一本を頼む。残りは彼が飲むにしたって、そんな贅沢いいのかな。

「これから、出産という大事業に挑んでもらうわけだからな。誕生日くらいねぎらわせろ」

部長は案の定、お高いワインをどんどんグラスに注いで消費していく。

やっぱり、この人が飲みたかったんだなと納得。私は乾杯の一杯で充分堪能した。

料理は本当においしかった。体重管理のためにあっさり和食ばかり食べていた私には、久しぶりのこってりバター味。油っておいしい……と軽くブタさん発言が出そう。

部長はワイン一本くらいで酔う人ではないけれど、お高いワインを飲みきると、そこからはお酒をやめた。金額的に心配している様子ではなさそう。

これは、まだなにかあるのかな。女の勘を働かせてみる。

「少し散歩するか」

食事を終えると彼が言った。

やっぱり、なにかある?

 

 

日比谷公園の横を通り、お堀に沿って歩く。

このあたりはオフィス街なので、土曜日の夜はだいぶ静かだ。遊歩道のように散策できるルートもあり、私たちはぶらぶらと都会の夜道を歩いた。

部長はやっぱり、なにか言いたいことがあるみたいだ。

もう何ヵ月も一緒に住んでいるからわかる。この人は仕事ぶりこそ豪快で鬼だけど、性格は慎重で繊細だ。

しかし、長い散歩に付き合っているうちに、お腹が張ってきた!今日一日、小さい張りは何度もあったけれど、今回のは結構苦しい。お腹がカチカチで、足の付け根まで硬直しそう。

「ゼンさーん、お腹張っちゃったんで、座っていいですかぁ?」

ベンチを指差し、間が悪いなぁなんて思いながら頼む。

部長が顔色を変えた。慌てて私の腕を掴み、ベンチまで引っ張っていく。

『いや、そのくらいは歩けますよー』なんて言う前に、私をベンチに座らせ、彼は自販機に向かってダッシュだ。もー、あの人、過保護!

「大丈夫か?悪かった。昼間から歩かせすぎたな」

「張るのは普通ですよ。心配するレベルじゃないですって」

私は受け取ったお茶のペットボトルを開けながら、笑ってみせた。部長は心配そうに私のお腹を撫でたあと、顔を上げた。

「佐波、これ、もらってくれるか?」

ポケットから、某ブランドのロゴのついた小さなケースを出す。渡され、開けてみると、ピアスが入っていた。ピンク色のダイヤモンドがついた可愛いデザインだ。

「えー!?いいんですか?」

「誕生日プレゼント。いつ渡すか悩んで結局、今になった」

「いやー!嬉しいですよー!」

はしゃぐ私に、真面目な顔の部長。

あれ?まだなにかある?

「おまえには、婚約指輪すら渡してなかったからな。兼用で悪いんだが」

「そーんな、婚約指輪なんていらないですよ!あ、でもこれは嬉しいんで、いただきます。へへへ」

「佐波、少し話してもいいか?」

私は首を傾げ、そのあと頷いた。

「おまえが転職してきたのは三年前だよな」

「ええ。もう三年ですね」

「そのとき、俺はおまえとこうなる未来なんて想像もできなかった」

それは、私もそうですって。しかも部下時代は鬼軍曹だと思っていましたよ。

「子どもの責任を取りたくて結婚しようと言ったときだって、俺はおまえを部下として見て、言ってたと思う」

「やー、私も上司だと思ってました」

「ずっと、気になってた。おまえは上司命令で俺と結婚したんじゃないかって」

上司命令で?

部長の言葉が引っかかって、妙な顔をしてしまう。

「いやいや、さすがに命令で結婚しませんって。ポンちゃんのためにって、自分で決断したんです」

そう言って、からっと笑ってみせた。

間違いで授かってしまったこの子の人生を、肯定してあげたい。そのために、私たちは一緒になろうと決めたんだ。決断はふたりのものだけど、それぞれ考えて出したことだ。

彼は息を吸い込んだ。それから、続けて話しだした。

「おまえと暮らすうちに、俺はおまえにすごく感謝するようになった。俺の子を守り、育ててくれてるおまえ。間抜けで適当なくせに、変に真面目で真剣で。泣いてみたり、怒ってみたり忙しくて、情緒不安定で」

「え?情緒不安定ですか?私」

思わず話の腰を折ってしまう。

自分ではそんなつもりはなかったけれど、そんな面倒なやつになっていた?

「妊娠中ってこともあるんだろうけど、おまえが騒いでるのを見て、意外だった。部下であるおまえは、結構冷静だったからな」

部長は、ふふっと少し笑った。それから、また真剣な表情に戻る。

「バタバタ怒ったり、泣いたりしてるのが俺やポンのためだと思うと、嬉しかった。最後には必ず笑顔に戻るだろう。それが俺を安心させてくれた。おまえは明るくて、誠実で、俺との生活を大事にしてくれる。約束通り家族になろうとしてくれてる」

私は部長の瞳を見つめ返す。街灯の光を映しているだけじゃない。ブラウンの瞳は綺麗に輝いていた。

「それで、わかった。俺は部下として仕事をこなすおまえにも、同じように感謝してたけれど、今感じる気持ちはとっくにそれを超えてるって。ようやく気づくことができた」

彼は前髪をかき上げる。照れているというより、恥じているという様子だ。

不器用な人。一生懸命、言葉にしようとしてくれている。

「おまえがいたから、お袋の顔を見に行くことができた。おまえがいたから、俺はもうすぐ父親になれる。おまえがいてくれるから……俺は今、これほど幸せなんだ」

部長の右手が私の頬に触れた。

温かい温度。私の上司。私の旦那さん。

「ずっと、口にしなかったことを言わせてほしい。好きだ、佐波。おまえのことを愛してる」

「ゼンさん……」

言葉にならなかった。途中から、彼の気持ちがわかってから、涙が止まらなくなっていた。

代わりに、私は彼の首に腕を回し、抱きついた。

「私だって、ずっと好きでした!……ゼンさんが、一色部長が、大好きでしたよ!ポンちゃんのついでに家族にしてもらえればいいや、なんて考えてたけど、一緒にいるうちにどんどん好きになって……女として好いてほしいって……苦しかった!」

わんわん泣きながら告白する私の背を、部長がさする。

「嬉しい……ゼンさんに好きになってもらえて……めちゃくちゃ嬉しい」

「もっと早く言えばよかったな。待たせて悪かった」

部長があやすように言って、私とポンちゃんを抱きしめる。その優しくて強い力に泣けてくる。

「佐波、ポンが産まれたあとでいい。育児に慣れてからでいい。俺と、恋愛からやり直してくれないか?」

彼の言葉に、私はまたボロボロ泣いたけれど、最後に力強く頷いた。そして、私たちはお互いの目を見た。

どちらからともなくキスをする。結婚式以来のキス。そして、今度こそ本当に誓いのキスだ。

「ゼンさん、好き。大好き」

私は部長の胸に顔をうずめ、呟いた。彼が私の髪を撫でる。

「俺も好きだ。おまえに惚れきってる」

責任を家族愛に。それが、私たちの計画だった。でも、まさかの展開が待っていた。

家族愛は、夫婦愛に進化できるんだ。

嬉しい。子どもができて結婚して、私たち、ようやく心を繋ぐことができた。

両想いって、これほど幸せだったんだ。

 

 

ホテルに戻り、シャワーを浴びた私たちは、セミダブルのベッドで初めて一緒に眠った。その頃には告白の興奮も落ち着いていたため、お互いすごく恥ずかしかったけれど、それでももう離れて眠りたくはなかった。

部長が困ったような怒ったような顔をしているのは、猛烈に照れているせい。

私の口数が多いのも、ポンちゃんの胎動が派手なのも、私が嬉しすぎて軽いパニックなせい。

「ポンちゃんがいなかったら、私たち、今でも上司と部下として仕事してましたよね」

私は彼の顔を間近に見つめて言う。

「そうだな。今頃、休日返上で丸友の案件こなしてたよ」

「確かに~」

「たぶん、俺は……それにかこつけて、もう一回おまえを押し倒してたかもな」

「え!?」

部長は私を焦らせたくてそんなことを言っているのだろうけど、自分の顔も赤くなっているって、気づいています?私も赤面していますけれど。

私は仕返しに、自分から彼の唇にキスをした。

「押し倒すのは、ポンちゃんが出てきて一ヵ月経ったらにしてください」

「ああ、楽しみにしてる」

私と部長はその晩、手を繋いで眠った。恋人として初めての夜だった。

 

 

丸友不動産の案件は長引き、私が産休に入るのは三十六週〇日からとなった。

私の我儘を通したかたちになる。どうしても全部片づけてから、休みに入りたかったのだ。

三十五週六日、この日が仕事最終日。部署では送別会を開いてくれた。名目上、私の送別会と日笠さんの歓迎会なんだけれど、実際はみんなが集まって騒ぎたいだけの会だったりする。

不動産担当グループは、お酒が強くない人ばかりなのに飲み会好きだ。まったく、つくづく楽しい職場だったよ。

「佐……じゃなかった、梅原」

みんなに囲まれてビールをチビチビやっていると、ダーリン、一色褝がやってくる。

「俺も一次会で帰るからな。勝手にひとりで帰るなよ」

「え?大丈夫ですよ?」

今夜、私は一次会で撤収。部長はいつも通り、最後までメンバーに付き合うことになっていたのだ。

「おまえのデスクの私物、だいぶ大荷物になってるだろう。他にも、花束やプレゼントももらってるんだから、俺が持つ」

「荷物は持ってもらえると嬉しいですけど、一緒に帰らなくても平気ですって」

「いーから。一緒に帰るぞ」

部長が押しきる。特に異存のない私は、素直に頷いた。納得した彼は、社長や日笠さん、森部長や和泉さんのいるテーブルに戻っていった。

一色大部長殿、過保護度が上がってますぜ。

 

 

飲み会は二十一時過ぎに終わった。居酒屋前の路上で、私はあらためて部署のみんなに頭を下げた。

「元気な赤ちゃんを産んできます。ありがとうございました!」

和泉さんが私を抱きしめる。さらに小柄な夢子ちゃんまで、腕を伸ばして私に抱きつく。

「ママへの旅!いってらっしゃい!」

「頑張ってくださぁい」

和泉さんが言う。半泣きの夢子ちゃんも言う。

「頑張れ!ウメちゃん!」

「落ち着いたら会社に顔を見せに来てね」

「産後、また一緒に働こう!」

温かい声援に見送られ、私は部長とその場をあとにした。

 

 

最寄り駅に着き、マンションまでふたりで歩く。なんか、身体が空っぽになった気分。軽くて、自由で、寂しい。

実際はポンちゃんがぎっちり入っていて、まだまだ重いんだけど。

「明日から無職ですよ~」

試しに言葉にしてみると、やっぱり寂しさを感じる。大学を出てからずっと切れ間なく仕事してきたからなぁ。

花束に顔をうずめて、ため息をついた。私の荷物を持った部長が、私を見下ろす。

「なに言ってんだ。おまえはこれから古今東西、何千年と繰り返されてきた重大業務に挑むんだぞ」

「はぁ、それってーと……」

「出産だよ。おまえは母親。この世で一番尊い職業に就く」

母親。子どもを産み、育てること。この世界の根元的な事象。

私はそれを担うひとりになるのか……。

「そっか。……いいこと言いますね、ゼンさん」

「だろ?もっと俺を褒め称えてもいいんだぞ」

「よ!大統領!」

「心がこもってない」

部長が私の頭を上からがしっと掴んだ。

「ぎゃー!ハゲちゃう!」

「生意気な嫁はこうだ!」

私を捕まえようと、彼がさらに手を伸ばす。私は頭を押さえて、夜道を逃げ回った。

あ!身体がよろける。

ちょっとしたコンクリートの段差につまずいてしまったのだ。部長が即座に、荷物を放り出して私を抱き寄せる。

「……調子に乗りすぎたな」

「ええ、お互いに」

私たちは誰も通らない住宅街の路地で、しばし抱き合った。

もうじき、私はこの人の子を産む。

明日から三十六週。十ヵ月目だ。

「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから

この記事のキュレーター

砂川雨路

新潟県出身、東京都在住。著書に、『クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした』(ベリーズ文庫)『僕らの空は群青色』『ご懐妊‼』(スターツ出版文庫)などがある。現在、小説サイト『Berry’s Cafe』『ノベマ!』にて執筆活動中。


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