ご懐妊!! 第10話 十ヵ月

OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!

妊娠十ヵ月(三十六週~)
胎児(三十九週末)…五十センチメートル、三千グラム
子宮の大きさ…三十二~三十五センチ

 

産休に入った私はここ数日、毎日マタニティビクススタジオに来ている。仕事をしていたときには来られなかった、平日日中のレッスンだ。

私より二週間以上前から、平日クラスに出ている美保子さんと待ち合わせて来ている。

出産まで約一ヵ月。他にもやることはたくさんありそうなんだけど、こうして時間を決めて行動するものがないと、手持ち無沙汰感が半端ない。

「なるほどね。確かに、急に仕事を辞めるとそんな感じかもね」

おっとり度が増した声で美保子さんが言う。

「美保子さんは?そんな感じしない?」

「私は専業主婦やってたこともあるから、割とのんびりを決め込んじゃってるわ。仕事もパートだから、出産を機に退職しちゃったし」

そっか~。そんな感じでいいのか~。

彼女のゆったり感は年上の余裕もあり、なんだか羨ましい。

私、いよいよ近づいてきたお産に、気ばかり焦っている……。

「樋口さんは三十七週?いよいよ正産期に入ったわね!」

話しかけてきたのは、インストラクターの先生だ。

この先生が『エッグ倶楽部』で〝美妊婦エクササイズ〟なんてのを指導していた小(こ)堺(さかい)先生。私が部長によって、ここに送り込まれるきっかけとなった先生なんだけど、やっぱり雑誌に出る人って違う。

年齢は四十代半ばかなあ。とにかく、すんごい美人。

美保子さんが嬉しそうにお腹を撫でて、答える。

「はい。でも、まだまだ下がってないみたいです」

「今、準備を始めたところよ。のんびり待ってあげてね。……えーと、一色さんは産休に入られたんですよね。はじめまして」

私は小堺先生のピカピカの笑顔に頭を下げる。

「はじめまして。『エッグ倶楽部』の先生の連載、拝見してます」

特に夫が、と心の中で付け足す。

「一色さんも、あと数日で正産期じゃないですか。どう?ドキドキしてきた?」

私はコクコク頷く。

さっきから出てくる〝正産期〟という言葉。これは〝臨月〟なんて言葉より、よっぽど妊婦や関係者に使われる。

臨月は出産予定日まで一ヵ月を指すのに対して、正産期は三十七週〇日~四十二週〇日という明確な区切りがある。多くの妊婦がこの期間に出産に至り、それを正期産という。この期間より出産が早ければ〝早産〟、遅ければ〝過期産〟となる。

つまりは三十七週イコール、いつお産になってもOKですよ~の意味なのだ。

「待ち遠しいような、怖いような……そんな感じです」

「そうよね。体調よければ、どんどんスタジオに通って、運動を続けてみて」

私は小学生のように「はいっ」と答えた。

レッスンが終わり、いつも通り受付で会員カードをもらう。だいぶお腹は重い。腰も痛い。

ポンちゃんはレッスンの間中、ドカドカ動き続けているので、疲れもひとしお。絶対、この子もビクスを楽しんでいる……。

「樋口さん、一色さん!」

受付スタッフの山田さんが、ちょっと焦った感じで声をかけてきた。

「おふたりにお願いがあるんですけれど」

私と美保子さんは、顔を見合わせるのだった。

 

 

その翌日、私と美保子さんは青山(あおやま)でランチをしていた。ほんの一時間前まで、マタニティジーンズやチノパンの広告モデルを務めてきたのだ。

昨日、マタニティビクススタジオで声をかけられたのは、この件だった。予定のモデルさんが急に出産になってしまい、週数のちょうどいい私と美保子さんに、白羽の矢が立ったってわけ。

撮影は二時間ほどで終わり、私と美保子さんはオープンテラスのカフェでご褒美ランチだ。日差しの眩しい六月の外ランチは気持ちいい。

「午後どうする?」

「思ったより疲れたわよね」

このあと、本当は産後のリフォーム下着を買いに行こうかと思っていた。でも、三十六週と三十七週の妊婦に、撮影は結構なイベントだった。ビクスより疲れたかも。

「買い物は明日のビクス後にして、今日は帰っちゃおうか」

「そうね。それだと助かるかしら。お腹、張ってきちゃってるから……」

美保子さんの言葉にかぶるように、どこからか「え!?」という声が聞こえた。私たちは声の方向へ顔を向ける。

カフェテラスの植え込みの向こう、歩道に立ってこちらを見ているのは……。

「佐波、おまえか?」

「涼也!?」

この猿系男子、間違いなく元彼の涼也だった。

 

 

気を利かせてくれたようで、美保子さんは『お腹が張ってきちゃったから先に帰るね』と席を立った。

今は美保子さんが座っていた席に涼也が座り、アイスコーヒーを注文している。

な、なんか、すごく変な感じ。今までのプレママモードが、一気に独身時代の頭に戻った。

「どうしたの、こんなところで」

涼也の勤め先は、西(せい)武(ぶ)池(いけ)袋(ぶくろ)線沿いの整骨院だ。ここは青山で、偶然会うような場所じゃない。

「今日はその……結婚式の打ち合わせで……」

「あー!そうなんだ!お相手はハルカちゃんだっけ?……彼女も一緒?」

「いや……そうなんやけど、彼女は今日風邪ひいたとかで、俺だけ……」

別れてずいぶん経つのに、元カノの私に気を遣って言いよどむ涼也。

本当に、こいつ、いいやつだわ。

「それよか、おまえ!驚いたなぁ!そんな大きいお腹して」

「あはは。涼也と別れたあと、上司と付き合ったんだけど、すぐに赤ちゃんができちゃって」

「そうなんや。今、何ヵ月?」

「三十六しゅ……臨月ってやつだよ」

週数言ってもわかんないか。

軽く事実を伏せている私は、苦笑いするしかない。

涼也は感慨深そうに頷いて、それから真面目な顔になった。

「あのな、一応やで?一応聞くんやけど……」

「なによ?」

「お腹の子、俺の子って可能性は……ないよな?」

私は涼也の真面目な顔を見返して、思わず吹き出した。

「ぶはははっ!ないない!それはない!私たち、別れる二ヵ月以上前からなにもしてないじゃん!」

「そ……そうやな。はは、俺、自意識過剰……」

なるほど。涼也が気まずそうな顔をしたのは、私を振った罪悪感だけじゃなく、実は自分の子を妊娠させたまま別れてしまったのでは……と心配だったんだ。

「涼也、今、幸せ?」

私は笑いやんで問う。涼也がぶんぶんと頷いた。

「ハルカちゃん、めっちゃ我儘やし、結構子どもやから、ときどき疲れるけど……でも幸せやで」

「そっか。私も幸せ」

一度は、涼也を父親に仕立ててしまおうかと画策した。そんなことを欠片でも考えた私は最低だった。危うく、部長も涼也もハルカちゃんも、そしてポンちゃん自身も不幸せにしてしまうところだった。

私の人生設計の中に、この優しい男の子と結婚する夢がなかったわけじゃない。

でも、これでよかったんだ。私はポンちゃんを授かり、部長と恋することができたんだから。

「お互い、よかったね」

こうして、偶然会えたこと。お互いが幸せでいること。

「遅ればせながら、ご結婚おめでとう」

「おお!おまえこそ、ご結婚とご懐妊おめでとぉな」

私たちは、ニッと笑い合った。

 

 

「まだかな~」

カーテンの向こうで銀縁メガネの先生が言った。

私は内診台の上で微かに落胆する。

本日三十七週〇日。いよいよもって正産期に入り、私は張り切って妊婦検診に来ていた。

十ヵ月目は検診が毎週になり、その都度お産の開始がいつ頃になりそうかチェックされる。最後の最後にトラブルが起きないかも要チェックポイント。

正直、間近に迫ったお産は怖い。でも、どうせなら早くポンちゃんに会いたい。痛い思いだって、覚悟が決まってすぐにしたほうが迷いがない気がする。

「全然お産の気配ないですか~?」

一応聞いてみる。

「うーん、まだ出口も硬いしね。ちなみに、お腹の張りや痛みはどうですか?」

「張りはよくありますけど、痛くはない……です」

内診のあと、エコーを見るため移動する。お腹の中はポンちゃんがぎっちり詰まっている状態だと言っても言いすぎではないと思う。超音波プローブがどこに移動しても、ポンちゃんの身体のどこかしらがアップで映るんだもの。

4Dエコーで見たポンちゃんは、尖らせた唇をんむんむ動かしていた。可愛いというか珍妙な顔だ。

でも、顔を見るたび、会いたい思いは募る。

はぁ、早く出てこないかな。私のお産、いつになるんだろう。

 

 

検診のあと、私は東京駅に向かった。群馬から母が出てくるのでお迎えに来たのだ。母は明後日までうちに泊まる。

最寄り駅で待っていなさいと言う母を押し切り、迎えにやってきたのは、少しでも運動をして赤ちゃんが下がるのを促そうという魂胆(こんたん)。

赤ちゃんの位置が下がらなきゃ、お産はやってこない。ここまで運動しまくってきた私としては、運動の効果を結構信用しているのだ。

「佐波~!」

改札から出てきた母は、すでにはしゃいでいる。駆け寄ると私のお腹を撫で始めた。

「大きくなって!もう!」

「そりゃそうだよ。産まれていい時期だもん」

母と会うのは結婚式以来だ。後期になって私のお腹がパンパンになってからは、初めて会う。

「お昼どうする?食べて帰る?」

「駅弁買ってきたから、あんたんちで食べましょ。そのあとは買い物よ。今夜はお母さんが作ってあげるから、食べたいもの言いなさい」

張り切っております、母上。でも、母の手作りごはんは久々だから、嬉しかったりもする。

「赤ちゃんはどう?」

我が家に向かう電車に乗り込み、母はワクワクした声で言う。

「元気、元気。キックがすごいんだよ」

「お産が近づくと、胎動が少なくなるっていうけどね」

「んー、さっき検診に行ってきたけど、今日の時点ではまだお産までかかるみたい。ノンストレステストっていう機械くっつけて、陣痛が来てるか見るのもやったけど、変化なし」

「まぁ、ゆっくり待ちなさい。今さらジタバタしてもしょうがないから」

そうよね。ジタバタする意味ないもんね。

「それより、明後日までに、あんたのうちの周りになにがあるか下見しとかなきゃ。スーパーと薬局だけ、絶対教えて」

母は張り切った声で言う。

今回の母の上京は、私の産後サポートの下見がメインなのだ。産後三週間は産褥期という時期で、私は布団中心の暮らしになる。ここできちんと休んでおかないと、産後の回復が遅れるそうな……。

そこで我が家で、家事や育児のサポートをしてくれるのが、うちの母ってわけ。

幸いうちの父はリタイア世代だし、家事はひと通りできる人だ。一ヵ月くらいなら、ひとり暮らしさせても問題ない。

私が実家に帰ることも考えたけれど、産まれたてのポンちゃんと部長を引き離すのがかわいそうでやめたのだ。絶対、離れられないと思うんだよね、うちの旦那さん。

「褝さんは?今夜遅いの?」

母が部長の帰宅時間の心配をしている。私は頷いた。

「今夜は打ち合わせがあるから遅いよ。でも、明日と明後日はうちにいる予定」

「あらま、私がいたらゆっくり休めないよねぇ」

確かに義理の親がいると、気を遣う人は多いと思う。でも、うちの旦那さんは器が大きいんだな。

「そんなことないよ。むしろ、『お義母さんを連れてくんだ』って、おいしい中華のお店を探してたよ」

「私が中華を食べたいって言ったの、覚えてくれてたんだ。本当に、あんたにはもったいないくらいの旦那さんだねぇ」

「まあね。私もときどきそう思うよ」

 

 

母が来てからの三日間はやることが多く、あっという間に過ぎていった。近所のドラッグストアでオムツを売っているかチェックしたり、スーパーの場所を確認したり。

後回しにしていたベビーカーの選定。足りないと母が主張するベビー衣料の買い出し。そして、部長と三人での外食が二回。

父へのお土産を買い忘れただの、やっぱり自分も服を見に行きたいだの言って、母の帰宅は月曜日に延びたのだった。

日曜日の夜、ようやくひと息ついた母と私はリビングでお茶にしていた。

部長は明日早いのと、私たちに気を遣ったようで、先に寝室に引き上げてしまった。

私と母は、お茶を飲みながらのんびりテレビを眺めている。

「あーあ。陣痛、いつ来るのかなぁ」

私はぼやく。この数日間、陣痛らしきものは来ていない。このタイミングなら、母にも出産の立ち会いをしてもらえたのに。

「そんなもんよ」

母は呑気な声だ。私は彼女を横目で見る。

「ね、私を産んだときはどうだった?」

今まで聞いたことなかった、母の出産の話。一番身近な経験者の話を聞かない手はない。

「あんた?あんたはタイミング悪かったわよ~?」

母が苦笑いのような表情になる。

「臨月の頃さ、ちょうどおじいちゃんの具合が悪くてね。もう、半月もたないってお医者さんから言われたもんだから、死ぬ前に孫を見せなきゃって話になってさ。三十七週で入院したのよ。すぐに赤ん坊を出してくれーって」

「へ?そうだったの?」

初耳の話に、驚く。私自身が赤ちゃんだったので、覚えているはずはない。

「促進剤使ったんだけどさ、全然陣痛始まらなくて。そうこうしているうちに、おじいちゃんたら、もち直しちゃったのよ。出す理由なくなっちゃったから、私も一度退院してね。結局、予定日から二日遅れで陣痛が始まって、あんたを産んだの」

「え?促進剤が効かないなんてあるの?」

出てこないから頼るんでしょう?促進剤ってものは。

「あんたがそうよ。お医者さんにも言われたけど、いつ出るかを決めるのは赤ん坊なんだってさ。つまり、あんたが『まだ出ない!』って強情張ってたのよ。大変だったんだから」

あらー、それはご迷惑をおかけしまして……。

「でもさ、それで私はわかったのよ。ああ、このお腹の子は私の分身じゃないんだ。私の意思や希望には関係しない、別の人生を歩む命なんだって」

「別の命……」

「そう思ったら、出てこなかったことも納得できたわ。産まれてから、あんたが泣きやまないときもそう思った。この子は私の思う通りにはいかない。だって、独立した生命なんだものって」

呑気者で天然の母の言葉はまるで、子育ての真理のようだった。まだ産んでいない私が言うのもなんだけれど。

そうか、別の生き物か。こうしてお腹で育てていると、自分の一部みたいに思えてもくるけれど、この子には私とは違う一生が待っているんだ。私はお腹を貸しているに過ぎない。

「別の生き物とはいえ、あんたの子だから、きっとマイペースよ。もうちょっと待ちなさい」

「うん、そうだね」

私は頷いて、お茶をすすった。

別の命……。

早く会いたいけど、ポンちゃんがまだ出ないって思っているなら、私は待つことしかできない。

 

 

三十八週一日、私は『プレママさんが読む本』を開いていた。

お産の始まる兆候というページ……。

えーと、なになに?お腹の張りが増える。赤ちゃんの位置が下がることにより、胃の圧迫感が減る。同じ理由で、足の付け根が痛む。大きな胎動が減る。おりものが増える。
うーん、当てはまるような、当てはまらないような……。

そして、もっとお産間近になると起こるのが……おしるし。前駆陣痛。うん、これは来ていない。

おしるしというのは、出産が始まるよという合図で、おしも……つまりは性器から出血するんだって。でも、たくさん出血する人から、全然出血しない人までいるとのこと。さらには、おしるしがあってもすぐに陣痛が来ない人までいる。

そして、前駆陣痛と呼ばれる陣痛の練習が来るらしい。それほど強い痛みではなく、不規則なのが特徴と本には書いてある。これもまた、すぐに陣痛に繋がる人もいれば、全然な人もいるって……。

出産って、不確かなことが多すぎない!?

私がなんで焦っているかというと、昨日の検診が理由。子宮口がまったく開いていないと言われたからだ。

『子宮頚管が熟化といって柔らかくなってくるんですが、うーん、硬いです。ここが柔らかくなって初めて、子宮口が開いていくんですね』

銀縁メガネ先生のお言葉が浮かぶ。ポンちゃんは、出てくる準備もせず悠長に構えているらしい。そんなわけで、しょんぼり帰ってきたのだった。

母と話したことで、お産の進みがポンちゃん頼りなのは理解したいと思う。助産師指導で、看護師長の天地さんも言っていた。

『お産は、赤ちゃんが産まれると決めたときに始まるんですよ』

それは、承知しました!でも、物理的にきつくなってきたのも確か。

まずは腰痛。もう、なにをしていても『腰が痛~い』って思っている。腰痛がひどくなるに従い、仰向けでは眠れなくなり、現在は横向きで抱き枕を抱えてふうふう寝ている日々。腰のせいか週数のせいか、よく起きちゃうし、トイレも頻繁だ。

さらには恥骨痛。『こんなところ痛くなるの!?』って気分。妊娠中期くらいは、ときどき骨盤がみしっときしむような感覚はあったんだけど、今は押されるような痛みを感じる。

そして、恥ずかしいので部長には内緒なんだけど、九ヵ月目から尿漏れが起こるのよ!ふと力を入れた瞬間や、くしゃみのタイミングで!

十ヵ月目、尿漏れは悪化し、今も水分吸収シートをパンツにくっつけている。

最後に、これが一番の問題、体重……。月曜日まで母がいたもんだから、ついつい普段より食べる量が増えて……。母が帰ってからも食べ癖が抜けなくて……。気がつけば、妊娠前からプラス十・五キロ。

うわぁぁ、あんなに頑張って管理したのに~!これ以上は増やしたくない!

あと二週間待っていたら、絶対リミットの十二キロを超えちゃう!っていうか、十キロ増で止めとくつもりだったのに!

ポンちゃん、そろそろ出る気にならない?ママ、いろいろしんどくなってきた。

「おい、佐波。もう時間じゃないのか?」

部長に声をかけられ、時計を見る。

「本当だ!いってきます!」

「気をつけろよ。腹が痛くなったら、電話しろ」

部長はきっと、私以上に待ち遠しく思っているんだろうな。でも、私を急かしたくないから、じっと待ってくれている。

早く、お産始まらないかなぁ。

そんなことを思いつつ、土曜日のマタニティビクスに向かう私だった。

 

 

土曜日のクラスは混んでいる。私はいつも通り美保子さんと合流して、スタジオへ入った。

会ったときに『あれっ?』とは感じた。彼女の大きなお腹が、垂れ下がっているように見えたからだ。

スタジオに入って着替えると、美保子さんは苦しそうにため息をついた。

「美保子さん、大丈夫?」

「ええ、実は今朝からお腹の張りが頻回で。生理痛みたいに痛いの」

生理痛みたいに痛いって……『プレママさんが読む本』で読んだような気がする。

「え!?それって陣痛なんじゃないの?」

「まだ、全然規則的じゃないのよ。一、二時間止まっちゃうこともあるし。まぁ、今日から三十九週だから、そういうこともあるわよね」

私より、当の本人である彼女のほうが落ち着いている。

「ビクス受けても平気?」

「今は痛みはないし、平気だとは思うけど、一応、枝先生に言ってくるわ」

美保子さんは重そうなお腹を抱えて、オーディオのところにいる枝先生の元へ。
大丈夫かな……。

 

 

結局、美保子さんは無事にマタニティビクスを受け終えることができた。

さすがに走るパートは歩いて、のんびりしていたけど。その間、陣痛らしきものは起こらなかったみたい。

着替えてスタジオの外に出る。本当はランチして帰るつもりだったんだけど、前駆陣痛なら早く帰ったほうがいいよね。

「佐波さん、帰り道のランチ、新宿にしない?」

あれっ?寄っていくんですかい?

「もし陣痛に繋がるなら、動いてたほうがよさそうだし。もしお産が始まっても、新宿なら病院までタクシーで行けるわ」

豪気ですね、美保子さん。でも、残り少なくなってきたプレママライフ。一回でも多く美保子さんとごはん食べたいなぁ。

結局、新宿で和食ランチにした。彼女はときどき「張って痛いわ」なんて言いながら、ニコニコとごはんを食べていた。普段よりもたくさんの量を。

 

 

翌日は日曜日。私は部長を巻き込んで、近所の大きな公園を散策した。ただの散歩ではない。お産を促すために早足のウォーキングだ。

公園を歩きつくすと、近隣の散策をする。隣の駅まで歩いて、カフェで遅めの昼ごはんをとり、買い物をして帰宅。

いつお産入院になってもいいように、買い物も最低限にしておく。生鮮食品は、ほぼ毎日使いきり分しか買っていない。

はあ、面倒くさい。あと二週間はこんな感じかぁ。

 

 

ひと休みという名の昼寝をして、夕飯の仕度をする。夏野菜キーマカレーが完成したのは十八時だった。

ふう、今日も運動と家事をこなしたぜ。

すると、スマホがメッセージを知らせている。見ると、美保子さんからだ。

【陣痛が始まったみたいなので、これから病院に行きます】

なにー!?

「ゼンさん!美保子さん、陣痛みたい!」

ソファで雑誌を読んでいた部長に叫ぶ。興奮した私は迷惑も省みず、美保子さんに電話してしまった。

『もしもし?佐波さん』

電波の向こうの彼女は落ち着いている。

「だっ、だだ、大丈夫!?」

一方、大慌ての私は、部屋中をうろうろ歩き回っていた。

『ええ。今朝、おしるしがあったの。それから少しずつ前駆陣痛が増えて、午後には規則的になったんだけど、まだ間隔が長いから待機してたのよ。今、ちょうど十分間隔。病院から来なさいって言われたから行くわ』

「ご主人、いるんでしょう?」

『それが、ちょうど昨日から出張なの。そろそろ羽(はね)田(だ)に着く頃だから、帰宅を待とうかとも思ったんだけど……。タクシーで行くことにする』

ここで役に立てずして、なんのママ友か!

私は浮かれた使命感に突き動かされ、美保子さんを引き止める。

「ちょっ、ちょっと待ってて!」

通話を保留にすると、部長に言う。

「美保子さん、今ひとりなんです!病院まで、送ってあげたいんですけど!」

話の流れを聞いていた部長は、すでに腰を浮かせていた。車の鍵と財布を掴み、答える。

「美保子さんちまで車で五分くらいだろう。すぐに行くって伝えろ」

カッ……カッコいい。うちの旦那さん。

「美保子さん、待ってて!うちの旦那さんが車出すから!」

『そんな、悪いわ。まだそれほど痛くないし、ひとりで行けるわよ』

「んーん!ダメ!うちも予行演習になるから、お願い!待ってて」

私と部長は美保子さんの家に急行するのだった。

 

 

美保子さんの家のチャイムを鳴らす。

すぐに、玄関で待機していた彼女が荷物を持って現れた。

「佐波さん、ありがとう。一色さんも本当にありがとうございます」

美保子さんは私と部長の顔を交互に見て、頭を下げた。こんなときでも上品で綺麗。

「痛みは?大丈夫?」

「ええ、さっき破水したみたいなの。水が流れる感覚がするし、本で読んだみたいな変な臭いがするから。今、産褥パッドを当ててるの。お車、汚しちゃわないかしら?」

破水!!いよいよじゃない!

慌てる私の後ろで、部長は後部座席にバスタオルを敷いている。

美保子さんから荷物を受け取り、車に誘導。

「こんなこともあろうかと、準備してあります。横になってください」

本当に、段取りゴイスーです、一色大部長殿。

武州大学病院までは車で十五分。直線距離ならもっと近いんだけど、大きな幹線道路を通らなければならないから、どうしてもかかる。

美保子さんの陣痛は、明らかに強くなっているみたい。間隔も十分を切っている。

病院の夜間出入口には、助産師さんがひとり待っていてくれた。私が助手席から飛び出していくと、慌てた助産師さんに止められる。

「そんなに急に動いちゃダメよ!」

「違う!違います!私じゃなくて!後部座席にいます!破水してます!」

私は必死に怒鳴る。

そりゃそうか。私も出産間近の妊婦だもんな。間違えても無理はない。

助産師さんが持ってきた車椅子に乗せられて、美保子さんは院内へ入る。私も付き添った。

ナースステーションで助産師さんが一瞬、私たちから離れた。

待たされながら、私はハラハラ。だって美保子さん、すごく苦しそうな息遣い。

「佐波さん」

「なになに?痛い?」

覗き込むと、彼女が顔をしかめながら言う。

「先に頑張ってくるわ」

「うん……うん!やっとチビちゃんと会えるね」

「ええ、やっとこの手で抱ける。嬉しい」

美保子さんは薄く笑い、万感こもる声で呟いた。その微笑みは忘れられないくらい美しかった。

流産を、不妊治療を乗り越えて今、美保子さんがママになる。それが、私も本当に本当に嬉しい。

私はLDR……陣痛分娩室に入る美保子さんを見送って、溢れた涙を拭いた。

 

 

一時間もしないうちに、美保子さんのご主人が病院に到着した。たぶん、空港からタクシーですっ飛んできたのだろう。髪はぐしゃぐしゃ。ワイシャツは汗で張りつき、メガネはズレて、本当に焦った様子だった。

美保子さんのご主人は、何度も頭を下げながらLDRへ入っていった。その背を見送ると、私も部長も、ふーっと大きく息をつく。

大きな仕事を終えた気分と、自分たちも近く同じ経験をする緊張感。

「ドキドキしますね」

「ああ。あとはご夫婦と赤ん坊に任せて帰ろう。夕飯だ」

「ゼンさん、カッコよかった」

「は!?……当たり前だ。バカ」

ストレートに褒めると照れる部長。可愛いなぁ。

私は彼の腕に自分の腕を巻きつけ、病院をあとにした。

頑張れ、美保子さん!

心の中で声援を送り、そして祈る。

どうか、母子ともに健康でありますように!

 

 

その晩、日付が変わった深夜二時。美保子さんは、三千二百五十グラムの男の子を出産した。

元気な泣き顔の赤ちゃんと、抱っこで微笑む美保子さんの写真が翌朝送られてきて、私は嬉しくて大泣きしたのだ。

 

 

数日後、美保子さん宅。目の前でくーくー眠る赤ちゃん。

薄い皮膚。ぽわぽわの髪の毛。ちいちゃい手はぎゅっと握られている。

「可愛い……」

思わず、ため息みたいに感嘆の声が漏れた。横で美保子さんが、うふふと笑った。

「ありがとう、佐波さん。純(じゅん)くん、ほら、褒められたわよ」

美保子さんはベビーベッドで眠る赤ちゃんの頬に、右手の甲をくっつける。赤ちゃんはよく寝ていて目覚めない。

「お名前、決まったんだね」

「ええ、純(じゅん)誠(せい)って」

彼女は嬉しそうに微笑んだ。

三十九週三日。今日、私は退院したばかりの美保子さんの家に、赤ちゃんを見に来ている。

彼女も赤ちゃんも異常なく日曜日に退院した。ご両親もお見えになるし、お顔を見に行くのは日を空けてからのほうがいいかと思ったんだけど、美保子さんがぜひにと言ってくれたので、お言葉に甘えてやってきた。

産まれたての美保子さんのベビー、純誠くん。まだ赤い顔をしたふにゃふにゃベビーだけど、きっと美保子さんに似て、顔立ちの整った子になるんだろうなぁ。

「純くーん。って、起こしちゃダメだね。ねぇ、お名前の由来聞いてもいい?」

うちは決まっていないし、参考までに。

「誠は主人の誠一(せいいち)から一字もらったの。純は……実は、流産した赤ちゃんの胎児ネームだったの」

美保子さんは困ったように笑う。

「授かって流れてしまう短い間だったけど、男女どっちでもいいように〝純ちゃん〟って呼んでたの。亡くなった子の名前をもらうのも、悩んだんだけど、どうしてもつけてあげたかった」

美保子さんにとっては、亡くなった赤ちゃんの存在証明なのかもしれない。

「いい名前だね」

私が微笑み、美保子さんも嬉しそうに微笑んだ。

ふたりでテーブルに着いてお茶を飲んだ。私が持参した、おっぱいによさそうな豆大福がお茶請けだ。

「どう?育児は」

「まだ、ね。わけわかんないうちに一日が過ぎてくって感じ。病院は基本、母子別室だったから、昨日の晩が初めてひと晩一緒だったの。思ったよりよく寝てくれて。気になって、何度も起きちゃった」

「おっぱいは?出る?飲んでくれる?」

「うーん、少しずつ出るようになってるみたい。でも、結構この子が飲むから足りないのかな。ゆくゆくは完全母乳でいきたいから、少しずつミルクは減らしてくつもり」

語る美保子さんの姿は、もうすっかりママだ。

なんだか、すっごく素敵。羨ましい!

「でね、聞きたいんだけど」

私は目下一番知りたいことを口にする。

「やっぱ、陣痛は痛かった?」

美保子さんは、うふふと笑ったけれど、それは普段のほんわかした微笑みではなく、意味あり気な笑いだった。

「佐波さんとご主人に送ってもらって、病院に入ったでしょう?」

「うん」

あのときも結構、痛そうだったけど。

「産むときの痛みは、あの時点の五百倍くらい」

なにいっ!?五百倍とな!!

「あまり脅かしたくはないんだけどね」

ビビる私に前置きして、美保子さんは出産の経過を教えてくれる。

「破水してから陣痛もぐっと強くなって、間隔も五分くらいになったんだけど、それが三時間続いたの。間隔が二分おきくらいの頃から、どうしようもなくいきみたくてつらかったわ」

「いきむ?なんか話では聞くけど、どんな感じ?」

「もう、言葉のまんまなの。私も実際その状態になるまでわからなかった。子宮口が全開になるまで、いきんじゃいけないって言われるんだけど、すごくつらくてね。ずっと背中を丸めて唸ってた。ベッドを分娩台に変えてもらって、それからは割と早かったみたい。私には地獄の業火に焼かれてるって時間だったけど」

美保子さん、穏やかに言っていますけど、〝地獄の業火〟って……。似合わない言葉がさらっと出ましたが。

「そこそこ年のいった妊婦だし、上品に産むぞって心に誓ってたのよ?でも、そんな余裕なかったわぁ。『痛い~!』『もう嫌~!』って何度も叫んだ記憶があるもの。でも、この子が出てきて、産声を聞いたら、なんかどうでもよくなっちゃったの。痛かったけど、元気に産まれたから、まぁいっかって」

あっけらかんと言う美保子さんは、あきらかに産前よりもさばけたお姉さんになっていた。そんな彼女もいい。ママ度が彼女の綺麗さをアップさせている。

すると、ベッドで純誠くんが、ふみゃあとひと声泣いた。

「あらあら、おっぱいかしら」

美保子さんはさっと立ち上がると、オムツをチェック。そして純誠くんを抱き上げ、ソファに連れてきた。

「ごめんなさいね」

私にひとこと断ってから、授乳ケープを羽織り、純誠くんに授乳を始めた。

ケープが邪魔なのか、うまく飲めないのか、純誠くんはときに「んぁー!」と文句のような声を上げながらおっぱいを飲んでいた。

可愛すぎるよ、ぼっちゃん!

授乳が終わり、純誠くんの口から小さなゲップが出ると、美保子さんが私に言った。

「ね、佐波さん、抱っこしてみない?」

「ええ!」

正直、赤ちゃんなんてろくに触ったことない。自信ゼロパーセントだ。

「大丈夫よ。もうじきポンちゃんを毎日抱っこするんだし」

彼女は無造作に、純誠くんを私の腕の中へ。

ふ……ふわっふわだ。他に表現のしようがない。

ガーゼの肌着越しに伝わってくる圧倒的なぬくもり。ずっしりとした重み。

仲間がいるとわかるのか、私のお腹の中でポンちゃんが動きだした。

純誠くんはお腹がいっぱいになったせいか、眠そうに目を瞬かせている。なんだか、すごく感動。

「佐波さんの予定日、今週の金曜日でしょ」

「うん。あと四日」

「頑張ってね」

「任せて!って言いたいけど……不安」

うう、きっと痛いんだろうな。美保子さんをもってしても〝地獄の業火〟っていう表現だもん。

その前に、私の陣痛はいつ来るんだろう……。

 

 

美保子さんの家から買い物をしつつ、二十分ウォーキングして帰宅。

時刻は夕方。夕飯作りを始めなきゃと思いながら、ソファにふんぞり返る。

「ポンちゃん、いつ出る?」

お腹に話しかけてみる。応答なしだ。寝ているのかもしれない。

美保子さんのご出産から一週間。私は変わらずビクスに通い、仲良しの妊婦さんや、インストラクターさんたちに美保子さんの出産報告をした。

『次は一色さんね』なんて、みんな言うけれど、私に陣痛が来る気配はない。

あと四日で予定日ですけど。なんの予兆もないなんてこと、あるのかな。

「ポンちゃーん。ママ、そろそろポンちゃんに会いたいよー」

純誠くんを抱っこする美保子さんの姿を思い出す。

正直、めちゃくちゃ羨ましい。美保子さんは一緒にゴールを目指してきた戦友だ。彼女が先にゴールにたどり着いたことが嬉しくて、でも羨ましくて切ない。

三十九週検診でも、私の出産の兆候はない様子だった。銀縁メガネ先生は『おまじない』と言って痛い内診をしてくれた。なんでも、〝卵膜剥離〟というらしい。赤ちゃんを包んでいる卵膜を子宮から剥がすとか……。

これが涙が出るほど痛くて、翌日まで出血があった。これで陣痛が進む人も多いらしいんだけど、私の場合はダメだったみたい。痛みと出血は二日で治まり、何事もない妊婦ライフが戻ってきてしまった。なんてこったい!

よっこらしょと身体を起こす。ごはんを作らなきゃ。

部長は予定日間近ということで、万障繰り合わせてくれちゃって、早めの帰宅が続いている。

そんな彼のためにも、早くポンちゃんに会わせてあげたいんだけどなぁ。

 

 

「お腹が痛い……」

三十九週五日。予定日二日前の夜のことだ。夕飯後、洗い物をしながら呟いてみる。

嘘じゃない。本当に痛い。

ソファには本日も早帰りの部長が座っていて、私の顔を見ている。ワクワクしているのは間違いないが、期待して私にプレッシャーを与えないよう、落ち着いた表情を貼りつけている。

「どんな感じだ?」

「生理痛みたいな感じです。夕方から張ってましたけど、今は痛い」

「間隔は?」

「うーん、たぶん十五分くらい?十七分?十三分?……バラバラです」

私はメモを見る。陣痛だったら十分間隔で産院に連絡だ。

かれこれ二時間以上、夕飯を作ったり食べたりしながらメモを取っている。

これが面倒くさい。やっぱ陣痛アプリをダウンロードしとくんだったなぁ。

もう少し様子を見ようということになり、お風呂に入る。温まったら、少し痛みが強くなった気がする。

やっぱり陣痛かな?でも、おしるしはない……ない場合だってあるよね。

気にしながら、部長と早めに就寝することにした。

 

 

就寝から三十分後、お腹の張りで目を覚ました。

張りや頻繁になったトイレで目覚めるのはよくある。しかし、やはりお腹が痛い気がする。

念のため、間隔を測ってみることにした。

時間をスマホのメモ機能に記して……あれ?十分間隔だぞ?

「ゼンさん!起きて」

横で寝ている部長を揺り起こすと、過敏になっている彼はすぐに覚醒した。

「陣痛か?」

「今、十分間隔です」

「……病院に電話してみよう」

産院に連絡してみると、『入院準備をして受診してください』とのことだった。

よしっ!やっぱりだ!陣痛なんだ!

部長は陣痛に備えて禁酒中だ。すぐに車を出してくれた。私は簡単なワンピースに着替えて、退院用の服に合うサンダルを履く。

車で向かう最中も、お腹の痛みと張りを確認する。

うん、痛い。でも、思ったよりは痛くないなぁ。美保子さんはもっと苦しそうにしていたけど。あ、そっか。彼女は破水もしていたもんなぁ。

そんなことを考えながら産院到着。採血なんかで会ったことのある助産師さんが対応してくれた。

「じゃ、診てみましょうね」

ドキドキと内診台に上がる。

『子宮口、もうだいぶ開いてますよ』とか言われちゃうのかな。だとしたら、ラッキーだよね。この開いていく過程が痛いって聞くもんね。

「うーん、まだかかりそうです」

「へ?」

思わぬ助産師さんの言葉。

……うん、OK、OK。了解、了解。

初産婦の平均分娩時間は十五時間くらいって書いてあった。もう子宮口が開いて、今にも産まれそうかも……なんて。そりゃ、私も期待しすぎだよね。

でも平気!一度、陣痛さえ起こっちまえば、こっちのもんなんだから!ちょっとくらい待つってもんよ!

「子宮口もだいぶ硬いですし、赤ちゃんも下がっていないですね。この感じだと、今日このままお産に進むって感じじゃないですよ」

助産師さんは私に充分残っていた期待を、簡単にぶち壊した。

はい?今日はお産にならないの?だって、お腹痛いよ?十分間隔だよ?教科書通りだよ?だから病院に来たのに!

諦めきれない私の希望もあり、ノンストレステストを受ける長椅子に移動して、陣痛の間隔や強さを測ってみることになった。

三十分計測した時点で、陣痛はみるからに弱くなり、そして消失した。

「前駆陣痛でしたね」

もう一度、内診してくれながら、助産師さんは軽く言った。

「まぁ、お産が近づいている証拠ですよ。また、おうちで様子を見てみましょうね」

「予定日、明日なのに」

日付が変わった。予定日は明日に迫る。なのに……。

私の口調には、やり場のない悔しさが滲(にじ)んでしまう。

「陣痛が起こらないなんて、あるんですか?」

「予定日は、あくまで目安ですからね。そう気にしなくても平気ですよ。お産が進むように、おまじないしておきましょうね」

助産師さんの優しさである、その痛い内診を再び受け、ヨロヨロと診察室を出た。

「帰ろう」

ノンストレステストの時点で、すでにすべてを察していた部長は、私の肩を抱いて歩くのを支えてくれた。

 

 

そのまま入院荷物を持って帰宅した。この悔しさはきっと誰にもわからない。不思議なことに、この感情は〝悔しい〟なのだ。

ポンちゃんが出てきてくれない。それがすごく不甲斐ない。すさまじく悔しい。

「佐波、もう寝よう」

「明日も仕事なのに……ゼンさん、ごめんなさい」

「バカ、謝るな。こっち来い」

最近、シングルベッドをくっつけて寝ている私たち。部長は、ベッドの上で私を抱き寄せてくれる。

エアコンの冷えた風。部長の温度。涙が出てくる。

なんだよ、どうして起こんないんだよ、陣痛は。私は早く、この人にポンちゃんを見せてあげたいんだよ。

「佐波、泣くな」

「大丈夫です……内診が痛かったから……涙が出ちゃうだけです」

私は部長の胸に顔を押しつけた。

熱い涙が彼のTシャツの胸もシーツも、じわじわと濡らす。

 

 

明け方まで眠れなかった私は、きっと陣痛を待ってしまっていたのだろう。

結局そのあと、陣痛らしきものは起こらなかった。内診の出血はその日中続き、翌日にはなくなった。

予定日、七月十八日がやってきた。

その日、私は四十週検診に行き、午後のマタニティビクスに出て、夕飯を作った。

それだけだった。

四十週〇日。出産予定日は何事もなく過ぎていった。

 

「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから

 

この記事のキュレーター

砂川雨路
新潟県出身、東京都在住。著書に、『クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした』(ベリーズ文庫)『僕らの空は群青色』『ご懐妊‼』(スターツ出版文庫)などがある。現在、小説サイト『Berry’s Cafe』『ノベマ!』にて執筆活動中。

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