ご懐妊!! 第4話 四ヵ月
OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!
妊娠四ヵ月(十二~十五週目)
胎児(十五週末)…十五センチメートル、百十グラム
子宮の大きさ…新生児の頭大
年が明け、三週目。成人の日に私は引っ越しをした。
長らくひとり暮らしをしていたアパートを引きはらい、部長との新生活が始まる。引っ越しに伴い、病院も新居に近いところに転院することに決めた。
引っ越しはつわりを理由に、梱包から不用品の廃棄まで全部お任せのパックにした。
だって、本当にまだつわりがあるんだもん。
部長の愛読書『プレママさんが読む本』によれば、四ヵ月になるとつわりは軽くなり……なんて書いてあるけど、そうでもない。
まだ立派に苦しいし、食事だってジャガイモ系か、トマト系か、レモン系しかとれない。
病院からもらった軽い吐き気止めだって飲んでいる。
まぁ、一時の地獄と比べれば軽くなったと言えるけど。
昼には新居に荷物が入った。トラックの助手席が揺れそうで嫌なので、私は電車で移動して待っていた。
なにからなにまでやってくれる引っ越しパック。私の荷物だってそんなにない。
部長も私もやることがなく、ぼーっとキッチンにいるうちに、引っ越し業者は去っていった。整頓された新居にふたりでいると、手持ち無沙汰感が半端ない。
「ちょっと早いけど、夕飯でも食いに行くかぁ」
部長が提案してくれて助かった。
「じゃあ、ちょっとハンカチ持ってきます」
外食の匂いはだいぶ気にならなくなったけど、鼻をふさぐハンカチは必須。私は初めて、ふたりの寝室に入った。あ、ベッドが……ふたつある。
すごく拍子抜けした。ダブルベッドを期待していたわけではない。でも、やっぱり、そうだよね。一緒に寝るわけないか。
「おい。行くぞ、梅原」
部長が顔を出して呼んでいる。私はコートを羽織り、ハンカチと財布をポケットに入れた。
微かな落胆は、なかったことにしよう。
近所のファミレスで向かい合った。時間は十七時過ぎだけど、店内はすでに家族連れで混み始めている。
「部長、マンションや家具の購入費用、ありがとうございました。私も半分出します」
注文を終え、ドリンクバーで飲み物を取ってくると、あらためて私は頭を下げた。部長はコーヒーをひと口飲んで答える。
「バカにするな。俺だって一応、結婚資金くらい貯めてたんだ。充分賄(まかな)えたから、気にするな」
当然とばかりに言うけれど、それなりに貯蓄が減ったことは想像に難くない。部長ひとりに払わせたくないなぁ。
「私だって貯めてましたよ」
「それは式に使おう。あと、これからおまえの給料は、全部貯めておけ。家計費は俺が渡す」
彼は決定事項として言っているみたいだ。
「え? でも」
「急にまとまった金が必要なときもあるだろう。予備費にしておけ」
部長……頼りになりますね。
友達の話だけど、結婚のときにお金の話をしておかなかったせいか、ふたりで自由に遣っちゃって貯金ができないという話を聞いたことがある。
私の旦那さん、堅実でよかったなぁ。って、まだ正式には旦那さんじゃないけど。
「今週末のご挨拶は、予定通り伺ってもいいんだよな?」
「はい。うちの両親、張り切ってました」
今週の土曜日は、遅くなったけど、群馬にいる両親に結婚の挨拶に行く予定だ。婚姻届を出すのも、式の日取り決めも、それからの話。
「なにか好きなものはあるか?」
「えーっと、うちの父はゴルフが好きですけど」
「手土産の話だ、大バカ」
ナチュラルに怒られた。やっぱり、部長はちょっと怖いです。
目の前に来た料理は、本日もフライドポテト。それにトマトサラダ。安定のラインナップだ。
部長は目の前でミックスグリルを食べているけど、匂いはだいぶ気にならなくなってきたと実感する。むしろ、今日はアイスクリームくらいデザートにつけられそう。
「おう。食べられるならもっと頼め」
再びグランドメニューを手に取った私に、彼が言った。
「じゃー、リンゴシャーベットを……」
「食え食え。食べられるっていいことだな」
「本当にそうですね」
「あ、そうだ」
部長がなにかを思い出したように、一瞬宙を仰いだ。それから私をじっと見る。
なんだろう? 私は店員を呼ぶボタンを押しかけて、やめた。
「梅原」
「はい」
「今日からふたり暮らし、よろしくな」
「え!? ああっ! はい!! こちらこそ、よろしくお願いします!」
慌てて額をテーブルにくっつけた。
なんの脈絡もなく、このタイミングで言うとは……。この人、読めない!
翌日、出社した私は自分のデスクにいた。思い出すのは昨夜、記念すべきふたり暮らし初日の晩だ。
ひと口だけワインで乾杯とか? お茶しながら未来を語り合ったりとか?
並んだベッドで眠りながら、『まだ、起きてるのか?』『なんか緊張して眠れないです』『……こっち来るか?』とか?
そんなやり取りは一ミリもなかった。なぜなら、二十時前に私がひとりで寝てしまったからだ。
ファミレスから帰ったら、鉛(なまり)のように身体が重くてもうダメだった。なんとかシャワーを浴びて、メイクをぐしゃぐしゃーっと拭いて、なんの保湿もせずにベッドへバタン。妊娠発覚頃から、やたら眠くはあったけれど、つわりで体力が落ちたせいか、余計に夜は身体に堪える。
部長が自分もシャワーの準備をしながら言った。
『おい、梅原。明日は報告だからな。忘れるなよ』
『……やっぱ、言うんスかー?』
『当たり前だ。おまえが住所変更を総務に申請して、俺と同じ住所じゃモロバレだろうが。その前にきちんと社内に報告するんだ』
彼は言うだけ言って、シャワーに行ってしまった。そして私は夢の中へ。
今朝になってみて、いろいろ考えた。部長の言っていた報告とは、私たちの結婚報告。社内に、今日の朝ミーティングで知らせるんだって。
うわぁ、想像しただけで恥ずかしい。だって、相手は一色部長だよ? 鬼の一種だよ? 冷血仕事虫と評判の……いやいや、優しい面も結構見ているけど。でも、社内では鬼の一色褝なわけですよ。そんな男と結婚……。
同じグループ内の人たちはどんな顔をするだろう?
えー! いつの間に!? ウメちゃん勇気あるな! っていうか、部長、なんでウメちゃんを?
みんなの反応を想像して……萎えた。
私と部長、釣り合っていないんじゃない? 忘れていたけど彼は結構なイケメンだ。
ちらりと顔を上げると、部下の松方(まつかた)くんと打ち合わせをしている部長が見えた。
鼻筋は通っているし、目元はセクシーだし、背だって百八十センチ。しかも仕事ができたら、女の子なんて選り取り見取り!
なのに、なんで梅原佐波を?って空気になっちゃうよなぁ。
上の階のマスコミ担当グループには、一色ファンの女の子たちが結構いる。あの子たちなら絶対言うよな。『なんで梅原さんなんかと結婚するの?』って。
私はデスクに突っ伏す。横では出社したばかりの夢子ちゃんが、慌ててパソコンを起動させている。今年の新人の二十三歳女子だ。
早く出退勤を押さないと遅刻って時間だもんね。
「彼氏の家にお泊まりしたら、寝過ごしちゃってぇ~」
聞いてないぞー、そんなこと。突っ込む元気がないので、頷くだけの私。
『うちなんか初夜だったけど、なんにもなかったんだぜ!』と威張ってやりたい。
男の人と住むのは初だ。見栄っ張りな私は、今までの彼氏なら一緒にお泊まりでもメイクは落とさないし、イビキをかいたら恥ずかしいから、相手が寝るまで寝ないようにしていた。
なのになぁ、ゆうべの私、気ぃ抜きすぎじゃないかな。ノーメイクだし、髪も乾かさず、先にガーガー寝ちゃったよ。今朝、部長はなんにも言わなかったけど、きっと呆れているよ……。
ぞろぞろとフロアに社員が入ってきた。上の階の総務とマスコミ担当グループのメンバーだ。週の頭は、こっちのフロアで朝ミーティングをする。
気が重いままミーティングが始まった。マスコミ担当グループの森(もり)部長が今日は仕切り役だ。
社長のお話があって、目下の仕事の確認。今週の目標。各部署より連絡事項。
「他はないかな?」
森部長が言う。
スッと一色部長が手を挙げた。彼はなんら普段と変わらない様子で口を開く。
「この場を借りまして、個人的なご報告があります」
場がざわついた。この言い回しは……誰しも察しがついただろう。でも、みんな一様に思っているはずだ。『まさかこの人が? そんな様子はなかったぞ!』と。
「梅原!」
私の覚悟が決まらないうちに、一色部長が私を呼んだ。私はおずおずと彼の立つ位置へ近づく。場のざわざわが大きくなる。
「私、一色は、部下の梅原佐波と結婚することにいたしました」
集まっていたほぼ全員が、なんらかの声を上げた。
驚きや歓声、一部の女子社員からは悲嘆を含んだ叫び。私はただただいたたまれず、真っ赤になって唇を噛みしめていた。一色部長が重ねて言う。
「梅原のお腹には、私の子どもがいます。今、四ヵ月ですが、仕事の面でみなさんにご迷惑をおかけすることもあるかと思います。何卒、よろしくお願いします」
彼が頭を下げ、私も慌てて一礼する。場のざわめきが拍手に変わった。
「おめでとうございます!」
「ゼンさん、おめでとうございます!」
「ウメちゃん、おめでとう!」
「いつから付き合ってたんですか?」
「お式、呼んでくださいね!」
次々にかけられる祝福の声に、胸がぐっと詰まる。
本日の仕切り役、森部長がひと昔前の芸能レポーターみたいに駆け寄ってきた。
「おぉーっと、ビッグカップルの誕生じゃないですか! ゼンくん! 梅原ちゃん!おめでとう!」
私は再び頭を下げる。自他ともに認めるお調子者の森部長が、なにを言いだすかヒヤヒヤしている。
「はいはい! じゃあ、みんな聞きたい質問ターイム!!」
案の定だ……。
「ゼンくん、入籍と結婚式のご予定は?」
「入籍は今月末か来月頭に、日取りを見てと思ってます。式は子どもが産まれるまでには」
一色部長は律儀に答えた。彼は部長の役職にはあるけど、社内では若手から中堅の年齢だ。年上の同僚や部下を無下に扱う人じゃないけど……。
「そうなんだ~。梅原ちゃん、ベビーは男の子? 女の子? いつ産まれるの?」
「あ……性別はまだわかんなくて、予定は七月中頃です」
「楽しみだねぇ! さて、梅原ちゃんはゼンくんのどこに惚れたの~!」
まだ、惚れてません。とは言えない。
そういう話は飲み会でやってくれ! ……とも言えないよね。
「厳しいけど……頼りになるところです……」
声を振り絞って言った。本音、これは本音。
「なるほどね! じゃあゼンくんは? 梅原ちゃんのどこが好き?」
私は息を呑(の)む。
一色部長はなんて答えるだろう。そろりと横目で彼の表情を盗み見る。
「そうですね、最初は仕事ぶりの真面目さが気に入ってたんですが」
彼は平然と、よどみなく続ける。
「そのうち、彼女の気さくな人柄に惹かれました。お互い酒好きで気も合いましたしね。私から告白して、プロポーズしたんですよ」
一色部長の口からスラスラ出てくる大ボラ。こ……この男、模範解答を用意していやがった! たぶんこんな事態になることを予測していたんだ!
「あ、あとですね」
彼は目を細め、いかにも嬉しそうに笑ってみせる。
「寝顔が可愛いんですよ、彼女」
「はっ!?」
私は横で声を上げてしまった。
コノヤロウ! なにリップサービスしてんだ!
「ひゃー、朝からごちそうさまだね! おふたりともお幸せに~!」
森部長が元の位置に走って帰り、オフィスに割れんばかりの拍手が満ちる。そして、朝ミーティングは終わった。
みんなに「おめでとう」と声をかけられながら、私はげんなりとデスクに戻った。
嬉しいけど、疲れた。もう一日分は仕事した気分だ。
「やだ~ウメさん、私、知らなかった~! 部長と付き合ってたなんて~!」
横から夢子ちゃんが顔を出してくる。
「ごめん、言えなくて。社内だったから、ずっと内緒にしてたんだ」
私はごまかそうと苦笑いを作る。
「もう! いつの間にですよ! 恋が生まれてたなんて~! しかも一色部長みたいなイケメン捕まえて、ずるい~!」
えぇーい、夢子。あんたが彼氏いるのに、総務の近藤(こんどう)くんと非常階段でイチャこいてたの、知ってんのよ。しかも近藤くんは新婚だっての!
「ここに入ってるんですね~」
夢子ちゃんは感慨深い声で言って、私のお腹をそっと触ってきた。
「うん……、夢子ちゃん、あんた、なに泣いてんのよ」
「あー、なんか感動しちゃいまして」
彼女は大きな目に雫をためて、涙ぐんでいる。
その涙が本物だってわかるから、私はこの子が好きなんだよね。可愛い後輩だ。
「ウメちゃん」
後ろから和泉さんが声をかけてきた。
「あらためまして、おめでと。これ、あげる」
「ありがとうございます。なんですか?」
「パンツ。妊婦パンツ」
私は周りに見えないように、紙袋をそっと覗く。パッケージに入ったふた組の大きめパンツが見えた。
「まだお腹は出てないと思うけど、つわりだし、圧迫は苦しいでしょ? よかったら使って」
「和泉さん……すごく嬉しいです。ありがとうございます!」
そうなの! 圧迫がつわりを悪化させるようで、ダルッダルの使い古した綿パンツをずっとはいてきた、この一ヵ月! 部長と洗濯が一緒になるのに、こんなパンツを干すのは恥ずかしいなぁと思っていたところだった。やっぱり神様かも、和泉さんて。
「出産まで応援するからね!」
「私も応援します!」
夢子ちゃんも横から言った。なんだか、味方はたくさんいるみたい。
ちらりと一色部長のほうを見ると、もう彼は外出するところだった。何事もなかったように。
助手席の窓を薄く開ける。
高速道路なので、結構な強風が車内に飛び込んでくる。ぶぶぶぶぶと大きな風の音も。
「手ぇ出すなよ」
部長が風の音に負けないように声を張った。
「出しませんよ!」
子どもじゃあるまいしと、私も負けじと声を張った。まだ気持ち悪いときもあるし、窓を開けたほうが気が楽なのだ。
関越道(かんえつどう)は空いていて、スムーズだ。この調子ならあと一時間半で到着ってところだろう。
私たちは結婚の挨拶のために、私の実家に向かっている。
そもそも、結婚したいと母に電話で話した時点で、両親は賛成だった。
『でね、赤ちゃんがいるんだ、お腹に』
言いづらい、できちゃった婚報告なのに、母は明るい声で答える。
『あらっ、今は授かり婚っていうのよ。Wハッピー婚ともいうんだって。この前テレビで観たわ』
『相手は会社の上司で、部長なんだけど』
『ずいぶん年上?』
『まだ三十三歳』
『やだ! あんた優良物件、捕まえたわねー。ちょっとトロいところがあるから心配してたのに、すごいじゃない~。ちょっと、お父さん聞いて~!』
……こんな調子。
うちの母、かなり天然で呑気なんだけど、還暦(かんれき)が近づいて磨きがかかっている。
「部長のご家族には、本当に挨拶へ行かなくていいんですか?」
空気が入れ替わったので、窓を閉める。私は車窓を眺めながら尋ねた。
部長は私の両親への挨拶だけで入籍すると言うのだ。
「いい。実家を仕切ってる叔父には連絡した。うちの親父は二十年も前に死んでるし、母親は今、体調が悪くて入院中だ。たぶん、式も叔父夫婦が来るだけになるだろう」
そんなものなのかな? 部長はひとり息子だ。お母さんの具合が悪いなら余計に、挨拶に行ったほうがいいんじゃない?
でも、この件に関しては部長の口が重いので、私は特になにも言わないようにしていた。
車は高崎(たかさき)インターで高速を降り、実家の方向に向けてぐんぐん進む。山沿いの少し高くなった土地に、両親の住む実家がある。
車を降りると、すぐに母が飛び出してきた。
「まーまー、よくいらっしゃいました。遠かったでしょう」
「はじめまして、一色と申します。大(おお)泉(いずみ)で関越に乗って二時間ほどでした。それほどかかりませんでしたよ」
部長はすでによそ行きの笑顔。さすがですよ、そのコミュニケーション力。
久しぶりの実家に入ると、居間で父が待っていた。
父は決して頑固親父ではない。どちらかというと、母と同じくらい呑気者で穏やかな人だ。でも、この対面の瞬間は緊張した。ソファに座る父の表情が厳しかったから。
「一色褝と申します」
部長は丁寧に言い、床に膝をついた。そして、なんと型通りに土下座したのだ。
「佐波さんと結婚させていただきたく、お許しを頂戴しに参りました」
私は仰天していたけど、すぐに自分も部長の横に膝をついた。
「結婚前に佐波さんを妊娠させてしまったことは、誠に申し訳なく思っております。ですが、佐波さんを愛する気持ちに偽りはありません。どうかお許しくださいますようお願いします」
相変わらずスラスラ出てきますね、部長。私は呆れではなく、感嘆を持って見守る。
すると、ソファから父が立ち上がった。彼は私たちの前にやってくると、同じように床に膝をついた。そして、厳しい表情のまま言う。
「佐波はひとり娘です」
その雰囲気で、私は一気に不安になった。
喜んでいるってお母さんは言っていたけど……まさか、お父さんは反対派だったの? そんなの聞いてない!
それでも、じっと成り行きを見守る。少しの沈黙を挟んで、父が再び口を開く。
「結婚八年目でようやく授かった、ひとり娘です。夫婦ふたりでやれることはやったつもりですが、至らぬところの多い娘です。一色さんの妻として見合うかは、わかりません。明るいだけが取り柄の子ですから」
ひゅ、と父が息を吸い込む音が聞こえた。
「でも、あなたさえよければ、もらってやってください。幸せにしてやってください。佐波は……」
そこまで言って、父は嗚(お)咽(えつ)した。目尻の皺(しわ)を伝って、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「佐波は……私たちの宝なんです……」
父が厳しい表情をしていたのは、泣くのを我慢していたからなんだ……。
「あらあら早いわよ、お父さんたら。泣くのは結婚式でしょ」
母がお茶を運んできながら、呑気な声を上げた。
父は泣きやまない。顔を真っ赤にして、ぽろんぽろん涙をこぼして。
……お父さんが泣くのを初めて見た。私の涙腺も緩んでしまいそうで、危ないったらない……。
ふと横を見ると、部長が唇を噛みしめ、俯いていた。
え? 嘘……でしょ?
その目に涙がいっぱいたまっているのを、私は見てしまった。
「必ず、必ず幸せにします。佐波さんとお腹の子は」
部長は絞り出すように言った。演技でもなんでもなかった。この人は、父の涙にもらい泣きしていたのだ。
ずっと、怖くて厳しい人だと思っていた。優しくしてくれるのは、責任からだと思っていた。でもこの人は、一色褝という人は、実はすごく感情豊かな、愛情深い人なのかもしれない。
気づくと私は、お腹を触っていた。
ねぇ、お腹のあなた。パパはもしかして、すっごくいい人なのかもしれないね。
父がどうしても部長とお酒を酌み交わしたいというので、私たちは日帰りの予定をキャンセルして、実家に一泊することにした。
ふたりは早速、父の出してきた日本酒の大吟醸で乾杯し、飲み始めてしまった。私の酒好きは父の遺伝だと思う。
母と私は夕飯の買い物に、近くのスーパーに向かった。車から降りると母が言う。
「あんたたちって、付き合って日が浅いの?」
私はぎくっと固まる。
「なんで?」
「なんとなく。お互い話し方が初々しいなあって」
ぼーっとしていると思いきや、意外とよく見ているね、お母さん。
付き合う前に結婚を決めたとは言えないので、ごまかして答える。
「実は、付き合ってすぐに赤ちゃんができちゃってさ」
「ふーん。でも、それもご縁ってやつだわね」
母はなにも気にしていない様子だ。
「私、知らなかった。お母さんたちが、八年も赤ちゃんできるの待ってたなんて」
「まあ、話さなくてもいいことかなって思っただけよ。不妊治療したわけじゃないし、私も仕事してたしね。でもお父さんは、自分が年上だからって気にしてたなぁ」
父は母より六歳年上だ。私と部長の年の差とたいして変わらない。
母はカートにかごをセットし、歩きだす。
「あんたが産まれたら、それまでの寂しさや不安は忘れちゃった。忙しくなったし、毎日が必死で。私もお父さんもあんたから、たくさん幸せをもらったよ。だから私は今、単純に嬉しいの」
横を歩く母を見つめる。ブロッコリーを手にした母が若々しく笑った。
「私の産んだ娘が、母親になろうとしてることが嬉しい。佐波が子どもを授かる幸福を味わえるんだもん」
そんなふうに思ってもらえていたなんて。私はまたしても涙腺が緩むのを感じて、目をごしごしとこする。
子どもを授かる幸福は、誰にでも簡単にやってくるものじゃない。
心して挑もう。たくさん愛してくれた両親のためにも。父の涙にもらい泣きしてくれた彼のためにも。
私たちが入籍したのは翌週の金曜日。十五週〇日、大安だった。
「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから
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