ご懐妊!! 第3話 三ヵ月
OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!
妊娠三ヵ月(八~十一週目)
胎児(十一週末)…九センチメートル、三十グラム
子宮の大きさ…女子の握りこぶし大
もう、どうしたらいいかわかんない。それが、私の感想だった。
どうしたらいいの?産む?産まない?
このお腹の生命を消すことはもう考えられない。
あの瞬間、力強い鼓動を聞いてから、そんな考えは消え失せてしまった。
堕胎という選択肢を選べなくなってしまった今、私には産むという選択肢しか残っていない。
じゃあ、どうやって産むの?どうやって育てるの?それがわからない。
ひとつだけ希望がある。実家だ。仕事を辞めて、実家に戻ろう。そして、両親と私でこの子を育てる。両親は怒り狂うかもしれない。でも私はひとりっ子だし、最後には許してくれるんじゃなかろうか。それとも、甘い考えかな。
お腹の子は、来年の七月に産まれてくる。もう予定日も出ている。
排卵日がズレたことと、私の心当たりが一回しかなかったことを総合して出た日にちは、七月十八日。
嘘みたい。六月に私の誕生日が来て、七月にはママですわ。
どうするの?ねぇ、私どうするの?自問しながら、今日も会社に行く。
異常な眠気は続いていた。先週から、夕方になると胃が気持ち悪くなる。たぶん妊娠のせいだ。
十二月がやってきていた。今日、一色褝が帰国する。
「今、帰ったぞー」
まるで自宅のように声をかけて、一色褝がオフィスに入ってきたのは、昼過ぎのことだった。
「ゼンくん、お土産(みやげ)!」
副部長の和泉さんが怒鳴るように言った。
「和泉さん、第一声がそれかよ。とりあえず、はい、お菓子」
「しけてるわねぇ」
オフィスにいたみんなが笑う。
私は笑えない。うう、部長の顔を見たら、また気持ち悪くなってきた。
和泉さんが引き続き声を張る。
「ゼンくん、帰国早々悪いけど、今夜飲み会だからよろしくね」
「え?なんの?」
「国治(くにはる)くんの送別会」
私は話を聞きながら、そうだったと思い出す。
今夜は飲み会。体調的にはしんどい。
「えー?国治って、上のフロアに異動するだけだろ?」
「まー、それでも飲むわよ。社長がやろうって言ってんだから」
「自分が飲みたいだけだ、あのジジイ」
部長は悪態をつきながら、自らのデスクに戻る。私の横を通り過ぎるタイミングで、ご丁寧に声をかけていく彼。
「おう、梅原。今夜飲み会らしいな。嬉しいだろ」
「部長……それが」
そのときまで、私は部長にお腹の子のことを言うか言わないか決めていなかった。覚悟もなかったし、あんなことがあったとしても、苦手な人には変わりない。
それに、彼ほどのいい男に、たった一回のエッチで『子どもができたの!』なんて、どれほど下心がありそうに見えるだろう。たとえ、それが本当のことだとしても。
でも、このとき私は発作的に言った。
「今夜、飲み会の前にお時間をいただけませんか?みんなが居酒屋に行ったあと、ここで」
「……今じゃダメなのか?」
「丸友の件で、マズイことが起こりまして。誰もいないところでお話しすべきかと」
これは咄(とっ)嗟(さ)についた嘘。でも、こうでも言わないと引き止められない気がした。
「今夜で間に合うんだな?」
「それは……間に合います」
部長は怪(け)訝(げん)そうに眉をひそめ、それから頷いた。
その夜、誰もいないオフィスで、私と部長は対(たい)峙(じ)した。
「丸友の件ってのは、なんだ?俺は昼からずっとヒヤヒヤしてるぞ。なにをやらかした?」
先に切り出したのは部長だ。私は俯(うつむ)いていた。
お腹を無意識に触る。
ここにいるあなた。あなたの存在を父親である人に言わないのは不当だよね。
私は部長の顔をまっすぐに見据えた。
「赤ちゃんがいます」
どストレートな告白がオフィスに響いた。
他にいろいろ考えたはずだった。なのに、出てきた台詞(せりふ)がこれ……。
「赤ちゃん……」
部長が珍しく間抜けに見えるのは、意味がまるで通じていないからだろう。彼はしばし、黙っていた。
やがて、目に生気が戻った。頭の中で私の言った意味が符合したようだ。
「な、なにーっ!!」
返ってきた答えは絶叫に近かった。
「そそそそそそれは、あっ、あの夜のって……ことだよなっ!?」
盛大につっかかりながら、部長が問い返してくる。
うわぁ。慌てるとこうなるんだ、この人。
私は神妙な顔で頷く。
「信じてくれるんですか?」
「おっ、おまえがっ、嘘を言うようなやつじゃないのは知ってるっ!」
信用はあるみたいだ。お腹を触ったまま、頭を下げる。
「すみません。堕ろそうかと思っていたんですが、赤ちゃんの心音を聞いたら……できなくなりました」
「梅原、おまえ……」
「赤ちゃんは、ひとりで産むつもりです。実家の群馬に戻って。親が手伝ってくれると思います。部長には、ご迷惑をかけないようにしますので……」
「なぁに言ってんだあっ!!この大バカがーっ!!」
またしてもフロアに響く大絶叫。部長はつかつかと近寄ってくると、おののく私の右手を掴んだ。お腹を触っている右手首だ。
「おまえは、なにをひとりで決めてんだ!しかも、堕ろす気だっただと?俺の子なんだぞ。勝手に俺の子の生き死にを決めるな!」
「で、でも、部長……、私だって、どうしたらいいか……」
私は言いながら涙ぐんでいた。
このひと月、ずっと途方に暮れていた。予想外の妊娠。産みたいのかと聞かれれば、わからない。でも、死なせることもできない。
育てられるのか、育てていいのか。皆目見当もつかない。
充分、大人になったと思っていた。だけど、決断ができない。
自分のことなのに。我が子のことなのに。
こうして私が悩んでいる間も、この子は頑張って大きくなっている。週数でいえば、今日は八週四日。三ヵ月目になる。
部長は私の右手首を掴んだまま、しばらく黙っていた。
「梅原、決めたぞ」
ようやく彼がそう言ったのは、たっぷり五分は経った頃だった。
この間は長かった。私は部長の次の言葉を、断罪されるような気持ちで待つ。
「よし、産め!」
「はあっ!?」
とんでもない許可が降ってきて、目を剥(む)いた。部長は私を見据え、力強く言う。
「責任を取ってやると言ってるんだ!」
「あの、それは養育費的な話ですか?認知とか?」
「違うっ!!おまえと結婚して、ふたりで子どもを育てようって話だ!!」
えー!?なに言ってんの、この人。
正直、私の中にそんな選択肢はなかった。
「そんなの……無理ですよ……!」
部長。一色大部長殿。私たち、付き合ってないですよ?なのに、結婚!?病めるときも健やかなるときも?それはちょっと乱暴すぎやしませんか?
私の顔が、さぞ困惑して見えたのだろう。部長は手を放し、私に向き直る。
「腹の子は、俺たちの一時の激情でできた。この子に申し訳ないと思う気持ちはあるか?」
「それは!……それはありますけど!」
真剣な瞳に気圧(けお)される。だけど、そんな簡単な話じゃないでしょう?
うろたえる私に、彼は言葉を追加する。
「じゃあ、責任を取ろう。ふたりで、この子に対して。俺の言ってることは違うか?」
「違いません……」
「だったら、結婚するぞ!」
あれ。最近、どっかで似た言葉を聞いたような……。あ、涼也だ。『それが義理人情ってやつやないか?』って。
部長は、もっとドライな人間だと思っていた。それが、まさか仕事並みの情熱を見せてくれるとは。
「部長は、いいんですか?責任で……私なんかと結婚しちゃって……」
「正直に言えば、俺はおまえを部下だとしか思ってなかった。丸友の案件のときは、いい相棒だと思ってた。……あんなことになったのは、魔が差したとしか言いようがない」
彼は渋い顔で、頭をかいた。そうだよね。私もそうだったもん。
「だが、おまえという人間に好感を持ってることは確かだ。家庭を営む上でも、よき相棒になってくれるんじゃないか、という期待もある。俺はあの晩の記憶は全部ある。おまえと話していて楽しかったのは本当だぞ」
真(しん)摯(し)な瞳で射るように見つめてくる部長に、私は胸を押さえた。
私だって楽しかった。こんなに和気藹々(あいあい)と話せる人だったんだ、もしかして気が合うところもあるのかな?そんなふうに思ったのも、してしまった原因だと思うし。
「梅原、おまえはどうだ?俺のことをどう思う?」
「私は……部長のことがおっかないです」
包み隠さず本音を言う。今はそのタイミングだ。ここで隠したら、私たちは大事なステップを踏み外すことになる。
「よく怒鳴られるし、正直苦手でした!でもあの夜、楽しく話せて嬉しかった」
言葉を続けながら、私の中でなにかが動いていく。変化していく。
妊娠のせい?ホルモンのせい?私は大きな決断をしようとしている。
「今も、赤ちゃんに責任を取ろうという部長の言葉を、嬉しく感じてます。部長が一緒にこの子を育ててくれるというのなら、私は未来を懸けてみたいです……!」
これは恋ではない。ひとつの命への責任。
その重さに、目頭にたまっていた涙がぽろりとこぼれた。
部長は私をまっすぐ見つめた。まるでこれから新規案件に取り組もうとでもいうように、情熱に満ちた表情で言う。
「俺たちは、夫婦という、いい相棒になれるな?」
「はい!なれます!」
涙をぐっと拭って、私は答えた。
決めた。私たちは家族になる。責任を〝家族愛〟に変えていくんだ。
「ところで、梅原。その……腹の子の写真はあるか?」
「写真?あー、エコー!ありますよ」
バッグをガサガサと探る。手帳に挟んだエコー写真を出して、部長に手渡した。
彼はしばし、無表情でそれを睨み、「よくわかんないな」と呟いた。
「えっと、これが赤ちゃんの入った袋です。あと、この白い点が赤ちゃんの心臓です」
「なんだ?まだ心臓しかないのか?」
「小さすぎて、よく映ってないんですよ。動画の状態では心臓が点滅してました」
「おお」
部長はまたしても無言で写真を眺める。それから、ばっと顔を上げた。
「梅原、俺の覚悟を見せてやろう」
言うなりスマホを取り出す。そして、どこかへ電話をかけだした。
「あ、もしもし?一色です。今、飲み会に参加してるんでしょ?じゃ、外、出て。いーから!」
「あの……誰に電話してるんですか?」
彼が答えないので、黙って見守る私。
「外に出ました?はいはい、すぐ済むから。えー、ご報告があります。俺、部下の梅原佐波と結婚することにしました」
は?誰になにを言ってんの、この人!?こーいうところは相変わらず、わけわかんない!
「ええ、ずっと付き合ってたんですけど、このたび、子どもができまして。まだ小さいんで内密にしてほしいんですけどね。まー、社長のあんたには言っといたほうがいいかと……」
「しゃっ、社長ぉっ!?」
私は目を剥き、叫んだ。部長は構わず続ける。
「これからふたりで挨拶に行くんで、そのまま外で待っててくださいよ。は?内密なんだから当たり前でしょ?五分で行くから」
電話を切った部長を、呆然と見つめる。
「社長に電話してたんですか?」
「まぁ、俺には親代わりみたいなもんだからな。……どうだ?これで俺の覚悟がわかっただろう?」
私は部長の言葉が終わるやいなや、へなへなと床に座り込んだ。
「おい!梅原!大丈夫か!?」
「あ、はい。なんか力抜けちゃって。すごい目(め)眩(まい)」
ここ最近の緊張が一気にほどけたみたい。目の前がクラクラするし、猛烈に気持ち悪い。なんとか部長に掴まって立ち上がる。
「挨拶が済んだら、タクシー捕まえてやるから帰れ。あと、帰ったら親御さんに連絡しろ」
「はぁ……」
「年内に挨拶に行きたい旨、伝えてくれ。同時並行で新居の準備を進める。入籍はおまえの親御さんの許可をもらってから、新年に日取りを見てだ。式の準備も親御さんの意向を聞いて、それからとする。わかったな」
さすが、一色部長。こんなところでも、段取りすごいッス。プロポーズもスケジューリングも電光石火なんですけど。
体調が悪くて口を挟む余裕もない私は、コクコクと頷いた。
社長たちがいる居酒屋までの道を、並んで歩いた。私は胃が気持ち悪くて仕方なく、ろくに喋(しゃべ)れなかったけど、部長はしきりに言っていた。
「子どもか。考えてもみなかった」
私もです。
でも、その感慨深い口調は、もしかして嬉しかったりするんですか?
数日のうちに私の体調は激変した。
目を閉じると、世界が回る。ぐるぐるぐるぐる。目を開けると、すさまじい吐き気が襲う。私はベッドの中で丸まり、呻いた。
「うぅーっ!気持ち悪いっ!」
誰でもいいから、なんでもするから、この状況をどうにかして!
妊娠三ヵ月目も半ば、九週三日にあたる月曜日。私は会社にも行けず、ベッドで布団にくるまっていた。
呻いたって楽になるわけじゃない。でも、黙ってじっとしているのも、身の置きどころがない苦しさ。
これが……つわり……。
部長と結婚するぞーって話になったのは、先週の火曜日のことだ。
そこから私の体調は、坂道を転げ落ちるように悪化していった。
日々更新される吐き気の限界値。匂いに敏感になり、電車やスーパーは危険地帯。食べ物はあれもこれも食べられなくなっていく……。
なにより、想像していたつわりと全然話が違う!
ほら、ドラマでよくあるじゃない。『うっ』て口を押さえて、洗面所まで走っていく女子。後ろで男性が『おまえ……まさか!』みたいな?
あんなのはフィクションじゃい!!だって二十四時間、片時の休みもなしに気持ち悪いんだもん!!『うっ』なんてレベルじゃないの!常時『おぇー』なの!
そして驚愕なのは、吐けないってことだった。つわりは気持ち悪い。激しい吐き気が大波小波で襲ってくる。なのに、全然吐けない!
二日酔いなら、吐けばちょっと楽になる。なのに、つわりじゃ吐けない!こっちのほうが苦しいのに!
ネットで検索してみたところ、吐きまくりの人もいるらしい。食べないと気持ち悪いって人も。そして、欠片も気持ち悪くならない人も。
なにそれ?どこの世界の魔法?神様、不平等すぎませんか?それとも、安易に妊娠した私への罰ですか?
ベッドの中で、私はどんどんナーバスになっていく。
これでも、先週は無理くり出社していた。私の妊娠を知るのは、部長以外では社長しかいない。まだおおっぴらにできない以上、普通に振る舞わなきゃ。
しかし、とにかく気持ち悪くて集中できない!パソコンに向かうのも、書類に目を通すのも、しんどすぎる。というか、オフィスチェアに座っている姿勢がすでに苦しいという……。まさに……地獄!
会社では何度となくトイレに立った。便器にもたれて、吐こうと試みる。指でも突っ込めば吐けるんじゃなかろうかと、人差し指で喉の奥を押す。
げーげーやりながら、ようやく吐けたけど、なにも食べていないから胃液が少し出ただけ。そして、楽にならないっっっ!
吐いたことで体力を使ったのか、ひどい目眩にも襲われ、便器にうずくまったまま立てなくなった。
これって、食べていないせいで貧血なの?こんな目眩、妊娠前には経験したことない。
『ウメちゃーん、いるー?』
ドアの外で声が聞こえた。副部長の和泉さんだ。
『はぁい、今出ますー』
明るい声を振り絞り、壁を頼って立ち上がる。平気な顔をして外に出ると、和泉さんがハンカチを渡してくれた。
『ウメちゃん、違ったらごめん。……もしかして、妊娠してる?』
びっくりして言葉が出ない。でも、私の表情でバレてしまったようだ。
和泉さんは四十二歳。来年中学生になる男の子のママでもある。
『……すみません』
『謝んないの。彼氏は、なんて言ってるの?』
まさか、その彼氏が彼女の年下上司だとは思わないだろう。私だってまだ言えない。
『あの……年明けに入籍しようって話になってます……』
『やだ!そうなんだ、おめでとう!……今、つわりなんでしょ?何週目?』
『今日から九週目です。こんなに苦しいと思わなくて……』
私は弱々しく笑った。隠しているつもりが周りにはバレて……情けない。
『思い出すなぁ。私はつわりがないタイプだったから、ウメちゃんの苦しみはわかってあげられないけど、妊娠出産の大変さはちょっとわかるつもり』
和泉さんが優しく肩に手を置いてくれる。ああ、和泉さんの世界にあったんですね。つわりのない魔法。
『和泉さん、私……全然使い物にならなくなっちゃって。本当に申し訳なくて……』
私はまたしても、べそをかいてしまう。妊娠してからやたらと涙もろい。
『いいんだよ。つわりの苦しさは人それぞれだっていうし、この時期を乗り越えれば、出産までまた元気に働けるよ』
和泉さんが提案してくれる。
『ウメちゃん、来週いっぱいお休みしたら?私の妹もつわりで仕事休んでたし、大事な時期だからありだと思うよ。嘘も方便。インフルエンザとか言ってさ』
『で、でも』
『一週間くらい回るよ。ダメなら上の階のメンバーに助けてもらって、それでも足りなければ、下請けに出す』
そんな、迷惑かけまくりだ……。
『今は赤ちゃんのことだけ考えなよ。みんな、そうやって赤ちゃん産むんだよ』
和泉さんが私の背を押そうと、重ねて言う。
『私は子どもを産むとき、前の職場を辞めざるを得なかった。でも、この会社だったら、きちんと産休育休もらって、復帰できてたと思う。この会社は、ウメちゃんが赤ちゃんのために休むことを許してくれるよ』
ママの先輩であり上司の和泉さん。なんて素敵な女性なんだろう。
『大丈夫!部長にはうまいこと言っとくから!ゼンくん、ああ見えて理解あるから、あとで本当のことがわかったって怒ったりしないよ』
その部長の子ですって事実は、もう少し内緒にさせてください。
そんな和泉さんのお言葉に甘えて、今週、私は休みをもらっている。そして、この件の冒頭に戻る。ベッドで身体を丸めて呻いていたわけ。
休み初日の月曜日、二十二時過ぎに部長が私のアパートを訪ねてきた。行くとは言われていたけど、ろくに片づけられないまま、初めて部屋に通すことになり、誠に遺(い)憾(かん)であります。
私は眉毛しか描いてない顔に部屋着。ひどい有り様だ。やっぱり遺憾であります。
「ほら、生きてるか?」
そんなことはお構いなしの部長は、いつもの調子で私にコンビニのビニール袋を手渡す。私はベッドの上でそれを受け取った。
中身はスポーツドリンクがたくさんと、ゼリーやプリン、アイスクリームもある。
あー、普段なら嬉しいラインナップだ。でも今は見るだけで胸が悪くなってしまう。
「和泉さんが、おまえはインフルエンザだと俺に言ってたぞ」
「あ、はい。表向き、それで部長には言っといてくれるって……」
彼は真顔で頭をかく。
「悪いことしたな。和泉さんには、あとで丁重に謝罪しよう」
「はい。それはもう」
「あと、これ見ろ」
部長がクリアファイルをベッドに載せる。それは新居候補の間取りや写真の資料だ。
「わぁ、ありがとうございます。さすが、仕事が早い」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
新居はこの土日にふたりで見に行くつもりだったんだけど、私の体調を考えて、部長がひとりで探しに行ってくれた。
私たちは何軒分もの資料をベッドに並べて、チェックを始める。
「会社が新宿だからな。通勤のしやすさと、住環境の静かさ重視だ。中古マンションだが、築浅ばっかり選んできたぞ」
「こことかいいですね。駅から遠くないし、公園も近くにあるみたい」
「間取りも悪くないよな。2LDKだ。子ども部屋も取れる。あ、でも……」
彼は言いよどんで黙った。
「なんですか?」
「なんでもない」
「気になるじゃないスか!」
食い下がる私に、部長は歯切れ悪く小声で言う。
「いや……子どもが増えたら……このマンションは手狭だなと……思っただけだ」
子どもが増えたら……その言葉に、私は頬がかあっと熱くなるのを感じた。
「あはは、……気が早いなぁ」
「そ、そうだよな!うん、梅原さえよければ、ここにしよう。俺が先に移り住んで、おまえは体調がよくなったら引っ越してこい」
彼は早口で言い、話を打ち切った。私もなんだか恥ずかしいので、助かった……。
「ところで、体調はどうなんだ?」
「よくはないですけど、部長と話してたら、ちょっと紛れました。ありがとうございます」
「腹で育てるのと産むのは、代わってやれないからな。俺にできることは……する。言ってくれ」
部長、なんだか優しいですね。こうして向き合っていると、あの夜感じた、ぐらっとくる引力を感じてしまう。優しいキスが胸をよぎる。
「あ!思い出したぞ!」
私の胸の高鳴りを無視して、部長が大きな声を出した。バッグから分厚い本を取り出す。
「これも読んどけ」
彼が出した本には『プレママさんが読む本』というタイトルがついている。
プレママ?ああ、妊婦ってことか。
「妊娠の経過と出産、育児までが簡単にまとめられてる。どうせ梅原のことだ。こんな気の利いた本は買ってないだろう」
「やー、確かに買ってないです。こんな本があることも知らなかったです」
「ちなみに俺はもう、ざっと目を通した。おまえが持っておけ」
自信満々に本を押しつけてくる部長に、私は「はぁ」と気のない返事。
もしかして、部長、ちょっと浮かれてませんか?いや、そんなことないよね。仕事バリバリ精神で妊娠に挑むと、こうなるんだよね。
彼が帰っていき、私は久しぶりに少し楽な気持ちになっていた。
すごい。部長と話したら、身体が楽。もしかしてお腹の赤ちゃんが『パパが来た!』って、つわりを緩めてくれたのかな?
なーんて、私らしくもなくロマンチックな思考。そもそも、赤ちゃんがつわりを緩められるなら、もっと早くそうしてくれて当然だ。だってこのまま私が食事できなきゃ、ベビーだっておまんま食い上げなわけだもの。
ベッドに横になる。
部長が次に来てくれるのは土曜日。今週は忙しいから、夜に来るのは難しいみたい。
この調子なら、次に部長に会うときには結構元気になっちゃってるかもしれない。そしたら、引っ越しの相談をしよう。
来週はクリスマスなんだし、できたてカップルとしてデートでもすべきかな。
うふふとにやけながら、眠りにつく。吐き気は減っていて、私はすっかり油断していた。
夜中、すさまじい喉の渇きを感じて目を開けた。
冷蔵庫まで行き、部長のくれたスポーツドリンクをコップで一杯、二杯。足りない、もう一杯。
そこで私は激しい吐き気に襲われ、トイレに駆け込んだ。噴水のように勢いよく吐き終えると、ユニットバスの床に転がる。
なにこれ?なにが起こったの?楽になったと思ったのに!
あとから考えてみれば、二週間近くろくに食べていない胃に大量の水を流し込めば、そんな反応は起こり得る。でも、このときの吐きっぷりの激しさに、私は恐怖を覚えた。そして水分さえ摂れなくなった。
悪夢は続いていた。
火曜日から土曜日まで、地獄の日々を送った。食事はおろか、水分も摂れない。
以前はそれでも、いくつかの銘柄のスポーツドリンクは飲めた。軟水のミネラルウォーターも大丈夫だった。それらも一切、身体が受けつけなくなった。
激しく吐いた恐怖がそうさせているようだったけど、とにかく気持ち悪くてしょうがなくて、原因物質を避けることに必死になった。
食べない、飲まないでいると、身体はどんどん弱っていく。力が抜けていくのがよくわかる。それでもやまない吐き気。
泣きたかった。もう勘弁して。許して。
他になにもできず、ひたすらお腹の子に語りかける。
ごめん。あなたを一瞬でも殺そうとしたママが悪いんだよね。でも、もう許して。ママは体力的に限界です。このままじゃ、あなたを産んであげられなくなっちゃう。
お腹の子の存在を強く意識したのは、こうなってからだった。妊娠に気づいたときも、心拍確認ができたときも、自分主体だった私。身体がままならなくなり、ようやくその原因に気持ちがフォーカスしていったのだ。
抱く感情は『おまえのせいだ~っ!』という、母親失格の恨みつらみですよ。
お腹の子が意地悪して、吐き気を起こしているわけはない。そんなのは知っているけど、他にすがる場所がない。
弊害が出始めていた。
まず、すごく寒い!冷やすとお腹が痛い……ような気がするので、ベッドから出られない。エアコンじゃ寒くて乾燥するばかりなので、電気ヒーターも稼働させる。
ダメだ、やっぱ寒い。ユニットバスの浴槽にお湯を張り、浸かってみる。全然温まらないばかりか、立ち上がった瞬間、世界が真っ暗になって湯船にドボンと逆戻り。あっ、危ないっっ……!貧血だったみたいだ。
結局私はお風呂を諦め、ベッドで布団にくるまって日々を過ごした。
活字を読むのが苦しいので、テレビをつけて、日がな一日眺める。なにも頭に入ってこないくせに、子どもの事故死や虐待死のニュースにむせび泣いた。不安定だ。
夜がとにかくつらかった。吐き気も悪化するし、なにより孤独感がいや増す。
部長から必ずメッセージが入るけど、【体調は?】【まあまあ気持ち悪いです】みたいな短文のやり取りで終了。定時連絡要素が強い。
仕方ないよね。ちょっと前まで上司と部下だったし、お互い恋愛感情なんて生まれていないし。でも、頼るところがないって、つらいよ……。
吐き気はマックス値のまま、何日も経っている。身体がしんどい。もうやだ。
土曜日の朝、吐き気で目が覚めた。
ヨロヨロとトイレに向かう。といっても、吐こうと便座にうずくまってみるだけ。吐けた試しなんかろくにないし、吐くことが今は怖い。
諦めて、普通に用を足そうとズボンを下ろす。自分の足が見るからに貧相に痩せていて、ぎょっとした。用を足し終え、尿がほとんど出ていないことにも気づく。あれ。私、昨日も吐こうとするだけで、トイレを正規の理由で使っていない。一回くらいしか出ていない……?
慌ててキッチンの流しの下から、しまってある体重計を引っ張り出す。乗ってみて驚愕した。マイナス五キロ……。
女子の常として、妊娠前は痩せたかった。でも、最後に量ったときから二週間ほどしか経っていない。それで五キロ減?明らかにマズイ領域だ……。
ちょっと待って!お腹の赤ちゃんは大丈夫なの?考えてみたら、心拍確認ができた六週から病院には行っていない。私は自分が吐きたくないから、食事も水分も摂っていなかった。でもお腹の赤ちゃんは、ひもじかったんじゃないだろうか?この子が栄養不足で死んじゃっていたらどうしよう!
キッチンに座り込み、私はしくしく泣きだした。最高に、らしくない泣き方だったけど、力が入らないんだ。
赤ちゃん、あなたのせいで気持ち悪いなんて思ってごめん!元気でいて!
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。ヨロヨロと立ち上がろうとしていると、鍵ががちゃっと開く。そこには、合鍵でドアを開けた部長が立っていた。
「ぶ~ちょ~お~」
私はダラダラ涙を流しながら迎えた。
「どうした!梅原!」
その姿に驚いた彼が、靴を脱ぎ捨て駆け寄ってくる。考えてみたら、やや怖い光景だ。ボサボサ頭に汚れた部屋着、頬がこけた妊婦が、キッチンでさめざめ泣いている。
「わっ……私っ、私のせいで赤ちゃんが……」
「落ち着け。落ち着いて話せ」
「気持ち悪くて……なんにも食べられなくて……水も……、赤ちゃんに栄養がいかなかったら、どうしようって……!」
しゃくり上げながら言った。貴重な水分が、涙になって身体から流れていく。
部長は私の有り様を見て言う。
「ずっと飲み食いできてないのか?」
私は頷く。
「腹の子はともかく、おまえはマズそうだな。車で来てるから、一緒に病院に行こう」
「まだ……朝七時ですよ……」
「電話を入れてみる。診察券を貸せ」
部長の車の助手席に、私は部屋着にコートを羽織っただけで連れ出された。
どうやら彼は私を心配して、朝から来てくれたらしい。
なんだよ、優しいなぁ、もう!つらかった数日に優しさが染みて、私は涙ぐんだ。
「また泣いてんのか?腹の子なら大丈夫なはずだ」
その様子に部長が勘違いして言う。
「なんでわかるんですか?」
「おまえ、『プレママさんが読む本』を読んでないな。読めと言ったのに。あの本によると、この時期の胎児は母体からあまり栄養をもらってないらしい。だから、おまえが食べないのは影響しない」
活字を読むのがつらくて、読まなかったけど……そんなことが書いてあったのね。
っていうか、『目を通した』と部長は言ってたけど、熟読したんですね。
部長の意外な面を見るたび、好感度が少しずつ上がっていく。
彼の愛車がこれ見よがしな外車じゃなく、シンプルでお手頃な国産車ってあたりも、好感度が上がるポイントですよ。
いつもの総合病院に着くと、処置室に通される。ちょうどお産が入って病院に来ていたおじさん先生が、姿を現した。
「気持ち悪いんだって?点滴を処方しといたから、ここで受けてってね。私はこれからお産に入っちゃうんだけど、午前診療のどこかで診られるから」
「あの……先生、私ずっと食べてないし、赤ちゃんの様子もあれっきり見てなくて、心配で……」
「あー、はいはい」
慣れた様子で看護師さんに指示を出すと、先生は行ってしまった。
私と一緒に処置室にいる部長は、ポカンと後ろ姿を見送る。すぐに別の看護師さんが、コンパクトな箱型の機械を持って現れた。
あ、この人、私にティッシュを渡してくれた人だ。胸のプレートで実は助産師であることがわかった。
「梅原さん、トイレはさっき済ませましたよね。こちらのベッドに寝てください。点滴は二時間くらいで、二本ね」
私は言われるがままにコートを脱ぎ、ベッドに横になる。腕に点滴の針が入った。
助産師さんは上掛けをかけてくれたけど、すぐに膝まで下ろす。
「お腹出しますよ」
「え?」
私のヨレヨレ部屋着を、ぺろんとめくる。
ぎゃー!部長にお腹見られるっ!
私の慌てっぷりにかかわらず、助産師さんはチューブからゼリーみたいなものをにゅるっと出して、お腹に伸ばし始める。そして、例のコンパクトな機械から伸びるマイクみたいな棒を、お腹に押しつけた。
――ドッドッドッドッ。
あ、これは。
「なんだ?」
部長が私を覗き込みながら聞いた。
「赤ちゃんの……心音です」
私が答え、助産師さんが言う。
「赤ちゃん、元気ですね。梅原さんは、あとで下からの超音波で動いてる画像が見られますよ」
「はい、ありがとうございます」
「赤ちゃん、産む、でいいのかな?」
この助産師さんが言ったのだ。『もう少し考えたら?』って。
部長が割り込むように答える。
「はい!彼女の婚約者です。子どもはふたりで育てます」
助産師さんが嬉しそうに、うんうんと頷いた。
点滴に繋がれ、私は二時間ほど眠った。病院で処置されているって安心感と、ここ数日の吐き気による睡眠不足もあって爆睡。
その間、部長には外出してもらった。朝から迷惑かけちゃったし、さらに二時間も病院に缶詰めじゃ悪い。
夢を見ていた。
モヤモヤした揺らめきはなんだろう。私、海の底にいるのかな?気持ちいいなぁ。
ふっと目が覚めると、助産師さんが私の腕から点滴を抜くところだった。
「よく眠れました?婚約者の彼が待合室に戻ってますよ。じきに診察で呼ばれるから、ふたりで中待合室に入っててくださいね」
夢の余韻でふわふわしながら、部長と合流する。身体が少し楽になったみたい。油断は禁物なんだろうけど。
すぐに診察室に呼ばれ、おじさん先生と再会した。
「まず、内診するよ。彼は遠慮してください」
先生にあっさり言われ、部長は『なにっ!?』という表情をした。たぶん、赤ちゃんのエコーを一緒に見たかったんだと思う。うーん、わかりやすい人……。
エコーの機械、だんだん慣れてきちゃったなぁ、なんて思いながら画面を見ていると、動画が映った。
え!おっきくなってる!
豆粒が二等身になった程度なんだけど、確実に前回とは違う。
「今日で十週一日だね。頭からお尻までで三・五センチメートル」
「そんなに……」
私は人差し指と親指でだいたいの大きさをイメージしてみる。こんなに大きな命がすでにお腹にいるの?
「母子手帳もらった?検診の補助券が入ってるから、次回からはそれ出してくださいね」
画面のブレだけじゃない。赤ちゃんが少し動いているのも見えた。
すごい。私がこんなに苦しんでいるのに、この子はマイペースに大きくなっている。マイペースにモゾモゾやっている。すごいよ。尊敬しちゃうよ、我が子!
「あらためまして、妊娠おめでとうね、梅原さん」
助産師さんから聞いていたみたいだ。カーテンの向こうでおじさん先生が言った。
帰宅するため、部長の車に乗り込む。エンジンをかけながら彼が言った。
「心臓、動いてたな」
「はい。部長の言った通り、元気に」
「悪い。俺、ようやく実感が湧いた。おまえが苦しんでるって、頭でわかってたのに」
部長の苦し気な言葉が意外で、フォローしたくてわざと明るい声を出す。
「私なんて、心拍聞くまで堕ろそうと思ってました」
「おまえひとりに背負わせてた気がする。罪滅ぼしに、ちょっと付き合え」
彼が車を発進させた。
えー?私、部屋着だし、車で酔ったら嫌だから、遠出はしたくないけど……。
部長の車は出発してすぐに、とある駐車場に滑り込んだ。正確には駐車場じゃない。最大手ファストフードのドライブスルーだ。
驚いている私を尻目に、彼はさくさく注文を済ませてしまう。
ちょちょちょちょっと待って!なに買ってんの?しかも車という密室に、その匂いのキツイ食べ物を入れてしまおうというの?どこが罪滅ぼし!?
部長は店員から受け取った紙袋を、あろうことか私の膝の上に載せた。そして、車を発進。
ぎゃあああっ!なんたる暴挙!
「部長っ!なに買ってんスか!!」
私は半ギレで叫ぶ。ここ数日で一番、腹に力の入った声だ。
「まあ、いいから。開けて食ってみろ」
「無理ですよ!!」
「ものは試しだ。やってみろ」
部長は言いきった。どこから来るのよ、その自信は。
とはいえ、悲しき部下の習性かな。上司には逆らえず、私は今にも捨てたいと思いながら紙袋を開けてみる。
ポテトがたっくさんだぁ……。ひとつ取って嫌々口に運ぶ。
ん?
ゴクンと飲み込む。
ん?あれ?
もうひとつ取って食べてみる。
あらら!?たっ、食べられるんですけど!?
「部長……なんでか食べられます……」
「お!やったな!……実はおまえが点滴をしてる間に、ネットで調べたんだ。つわりの妊婦が食べられるものナンバーワンが、フライドポテトだったんだよ」
「はぁー?なんでこんな揚げ物が!?」
「現に、おまえは食えてるじゃないか」
確かにそうだ……。信じられないけど、食べられるし、この油っぽさが胃に心地いいのよ。
部長はさらに車を逆方向に走らせる。池(いけ)袋(ぶくろ)駅のロータリーまで来て、車を一時停止させた。詳しく言わないけれど、誰かと待ち合わせをしているらしい。
五分も経たないうちに、私もよく知っている人が、駅構内から人波に交じって出てきた。副部長の和泉さんだ!
彼女は部長の車に近づいてくると、後部座席に乗り込んだ。
「お待たせ!」
「和泉さん、すみません。休日に」
「いいのよ。旦那と息子は朝から釣りに行っちゃって暇してたから。それよりウメちゃん、大変だったね」
和泉さんは……私と部長のこと、知ってるの?私が問う前に、部長が答える。
「さっき、電話で話した」
「驚いたわよ!つわりのときに飲める水分を教えてほしいなんて。聞いたら、ウメちゃんのお腹にいるのは自分の子だとか言いだして」
「和泉さん……すみません。あのとき、ちゃんと言えなくて……」
「いいの、いいの。社内恋愛だと言いづらいってもんよ。それより、これ!」
和泉さんが紙袋に入れて手渡してきたのは密閉容器で、中身は輪切りのレモンがぎっしり。その上になにか、かかっているみたい。
「ハチミツレモンですか?」
部長が運転しながら、ちら見して尋ねる。
「そう!私の妹も水が飲めないくらいのつわりでね。ハチミツレモンをミネラルウォーターで割ったものだけが、喉を通ったの。作ってきたから、ウメちゃんも試してみて」
和泉さん……あなたってもしかして、神様?
「ありがとうございます!飲んでみます!」
ありがたすぎて涙が出そうだ。私は受け取った容器をぎゅっと胸に抱きしめた。
「和泉さん、助かりました。ネットで調べても、飲める水分ってのがまちまちで。家まで送ります。練(ねり)馬(ま)区でしたよね」
「いいわよ。その辺で降ろしてくれたって、バスで帰れるもん。それより、ウメちゃんを長時間連れ出しちゃダメでしょ」
和泉さんはしきりに遠慮したけど、私の体調ももちそうだったし、休日に出てきてもらって申し訳ないので、おうちまでお送りした。
「本当にありがとうございました」
車を降りる和泉さんに、あらためてお礼する私たち。和泉さんがニコッと笑った。少しふくよかな彼女が笑うと、丸い頬にくっきりとえくぼが浮かぶ。
「なんだ、並ぶとお似合いじゃん。気づかなかったなぁ」
私はたぶん真っ赤な顔をしていて、横を見ると、運転席の部長は渋い顔だ。
でも、その頬が赤いのは隠せないですよー。
そのあと、部長は私を送り、帰っていった。引っ越しの準備を先にしておくって。明日にはマンションの契約を終え、また来てくれるとのこと。
私はというと、その日からポテトとハチミツレモン水を主食に暮らした。
二、三日に一回、病院に吐き気止めの点滴に通い、水曜日からは短縮勤務で会社に復帰。吐き気は続いていたし、食事もまだろくに摂れなかったけれど、どうにかこうにか日々をこなす。
やがて、ポテト以外にゼリーやトマトジュースが口に運べるようになった頃、妊娠三ヵ月が終わろうとしていた。
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