ご懐妊!! 第11話 ご出産!!

OLの佐波は、苦手な超イケメン鬼部長・一色とお酒の勢いで一夜を共にしてしまう。しかも後日、妊娠が判明!
迷った末、彼に打ち明けると「産め!結婚するぞ」と驚きのプロポーズ!?
仕事はデキるけどドSな一色をただの冷徹上司としか思っていなかったのに、家では優しい彼の意外な素顔に佐波は次第にときめいて…。
順序逆転の、運命の恋が今始まる!

予定日が過ぎた。なにも起こらなかった。

いわゆる、予定日超過の状態に突入してしまったことになる。

正直、こんなはずじゃなかったと落胆を隠せない。予定日までにすんなり陣痛が来て、ポンちゃんに会えるのだと簡単に考えていたため、予想外の事態に頭がついていかない。

私は目に見えて苛立ち始めていた。

予定日に、夢子ちゃんをはじめ、独身の女友達からメールが来た。

【今日、予定日ですね】

【もう産まれちゃった?】

【今頃、病院だったりして。頑張れ~】

一切悪意のないメールの数々。これがつらい、苦しい、イライラする!

だって私、陣痛起こってないもん!!産まれる気配ないんだもん!!

「四十一週まで様子を見ましょうか」

銀縁メガネ先生は呑気に言った。

「赤ちゃんも元気だし、推定体重は三千グラムちょっとかな?一週間遅れても、大きくなりすぎるってことはなさそうだね」

「四十一週まで陣痛が来なかったら、どうするんですか?」

「僕の方針としては、そろそろ入院して、薬で陣痛を誘発していこうかなと。でも、妊婦さんの希望と赤ちゃんの状態次第では、四十二週まで待つことも可能です」

それを決めるのは、来週ってことかな。この一週間でお産が始まらなければ、そういう流れになる。

前日に前駆陣痛を経験した私としては、今日の検診でお産の進行が確認できたらいいや、くらいの気持ちでいた。なのに、今日もお産の兆候はなく、された話は陣痛の誘発。

はぁ。ため息しか出ないッス。自分でも、これほど短気だとは思わなかった。どうしてあと一週間が待てないのだろう。どっちみち、二週間のうちにはポンちゃんに会えるのに。

でも、陣痛を待ちわびすぎてすり減った心は、想像以上にカサカサでしわしわ。そしてクタクタ。

毎晩、陣痛を待ってしまって寝不足だし、お腹がまた大きくなったせいか腰も痛い。体重はついに十二キロ増。精いっぱいコントロールしたけど、三十九週からの不安感を埋めるために、甘いものに手を出してしまったのが大きな原因だと思う。

もう、しんどい。頑張ってきたつもりの妊婦生活。もう、お腹いっぱい。そろそろ卒業したい。

それとも、ポンちゃんが出てこないのは、私に原因があるの?

 

予定日翌日。私はマタニティビクスに来ていた。

予定日超過していたって、陣痛が来ていないんだもん。スタジオは来ていいんだもん。そんなやさぐれた気分でビクスを受ける。

救いなのは、今日は馴染みの枝先生のクラスってことと、走ると気分が少し晴れるってことだ。

運動を済ませ、のろのろと着替えていると、枝先生が話しかけてきてくれた。

「一色さん、調子はどうですか?」

私は笑おうとするけれど、へにゃっとした力ない空笑いになってしまう。

「なんか……陣痛来なくて……予定日も過ぎちゃって……自分にがっかりしてます」

「がっかり?なんで、また」

枝先生が明るく言う。私は大きなお腹に腹帯を巻きつけながら、呟くように答える。

「陣痛が来ないのは、私に赤ちゃんを産む力がないのかなって」

産む力。……赤ちゃんを外の世界に送り出してあげる力。赤ちゃんをこの世に産んであげる力。

運動して、食事管理して、そこそこ頑張って妊婦をしてきたつもりだったけれど、私、この十ヵ月で〝産む力〟をつけられなかったんじゃなかろうか。

それとも、もともと私には備わっていなかった?成り行きで妊娠しちゃった私には、産む資格なんかないの?だから、陣痛は起こらないし、起こってもポンちゃんが出てこられる陣痛じゃないんだ。

「一色さん」

枝先生が、私の前にぺたんと座った。普段ならスタジオの片づけや、他のお客さんのお見送りで忙しいのに。

「産む力って、あると思う?」

「……あると思います」

自然と私の声は涙声になっていた。どんどん惨めな気持ちになっていく。情けない。私じゃ、ポンちゃんを産んであげられないかもしれない。

「私も、あるとは思います。でも、もっと大事なことがある。それは赤ちゃんの〝産まれる力〟」

「産まれる……力?」

「母親は〝産んであげる〟んじゃないの。きっと、それじゃおこがましい。赤ちゃんは勝手に産まれてくる。母親はそれを助けるだけ。私たちインストラクターは、助けのさらに手助け役。産科医や助産師は、ママじゃ助けられない部分のカバー。ね、見事に役割分担できてると思わない?」

「じゃあ、陣痛が起こらないのは、どうしてでしょう……」

鼻をすすりながら聞く。

「それは残念だけど、わからない。赤ちゃんにしかわからない。妊娠出産には、いまだに不明瞭な部分があるのも確かだけれど、お産のスタートは赤ちゃんが決めると言われてます。ママは赤ちゃんの決めたタイミングで、助けの手を伸ばすんです。これって、先々の育児でも似た場面があるように思いますよ」

母に言われたことを思い出す。

私が望まれたタイミングで産まれてこなかったのは、私が母とはすでに別の生命だったから。確かにそう言われていたのに。焦りで、つらさで、気づけば原因を自分に求めていた。裏を返せば、私はまだ、自分さえ頑張れば陣痛を起こせるかもって足掻いていたんだ。

「母として最初の仕事が〝待ってあげること〟っていうのは、ちょっともどかしいかもしれないけれど、赤ちゃんがその気になるまで、のんびりしてあげるのはどう?」

「なんか、すごく気持ちが焦っちゃって……病院にフライングもしちゃったし。早く会いたいって思うのに、うまくいかないのは自分のせいみたいで」

「すごく不安よね。焦るよね。私も予定日超過だったから、よくわかります」

「え!?」
枝先生が!?ビクスの先生なのに!?
「私はひとり目のときは、九日超過してますよ?妊娠後期湿疹も出て、かゆくて不快だし、前駆陣痛も頻繁でつらかった。でも、お産自体は安産だったし、産んで時間が経てば、こうして笑えます。ね?インストラクターやってても、お産ってうまくいかないの。ちょっと勇気出たでしょ?」

「……結構、出ました。勇気」

私がようやく笑ったのを見て、枝先生もニカッと笑った。

 

帰宅した、その晩のことだ。

夕飯後に名前の相談なんかをしつつ、お茶をする私たち夫婦。

お産への焦りはあるものの、名前についてはどうしても決めかねている。私としては、顔を見て決めたいというのもあるし……。

でも部長は早く決めたいようだ。

「決めたら、刺繍してやればいいだろ」

彼が、ふと言った。

「刺繍?」

「おまえ、スタイ作ってただろ。あれに名前を刺繍すればいいんじゃないか?」

私はぎょっとした。なんでそれを?ゴールデンウィークに、部長の留守を盗んで作ったあのスタイは、入院バッグの底に隠しておいたはずなのに。

私の驚きをよそに、彼はニコニコしている。

「この前の病院騒ぎな。あのとき、バッグの中に見えたんだ。……まあ、なかなか味のある出来だったが、ポンには似合いそうだな。名前を決めたら、お産までの間に刺繍してやればいいと……」

私は部長の言葉を聞き終える前に、立ち上がった。なんとも言えない気持ちだった。

恥ずかしいのか、悔しいのか。

昼間、枝先生と話して落ち着いた心が、またざわざわと揺れだすのを感じる。

「味のある出来で、悪うございましたね」

「おい、変な意味に取るな。初めて作ったんだから、誰だってあんなもんだろ」

彼はまだ笑っている。

「フライング受診して、悪うございましたね」

「言い方が悪かった。病院騒ぎじゃないよな、うん」

声に危機感が交じりだした。遅い!

「お産まで、刺繍の時間がたっぷり取れそうで、悪うございましたね!!」

「佐波!」

部長の声を背中で聞いて、私は再び家を飛び出した。

妊娠中二度目の家出だ。しかし、今回はスマホしかない。そして、今にもお産が始まるかもという期待と不安で、遠出はできない。

家の周囲を無目的に歩き回った。

ぐるぐるぐるぐる歩く。効果音はズカズカというか、今の私の体型だとノシノシ。

行き場のない私は、マンション近くの小さな公園に落ち着いた。滑り台とベンチしかないところだ。

「せっかく、静かに待つ覚悟……決めたのに」

ベンチに腰かけ、呟いた。昼間我慢した涙が、膝に置いた手の甲にぽたんと落ちる。

「早く、出てきてよう。ポンちゃん……」

待つよ、きみが出てくるまで。そのつもりだよ。

でも、ママ、きみに早く会いたいんだ。待ちきれないんだ。我慢できないんだ。

美保子さんみたいに、早くきみを抱っこしたいんだよ。おっぱいをあげたいんだよ。

切なくて、たまらなく悲しくて、私は泣いた。ひとりぼっちで泣いた。

一番近くにいるはずのポンちゃんが遠くて、なんだかとても心もとない。

「佐波」

十分もしないうちに、部長が迎えにやってきた。走り回って探したのだろう。彼のTシャツは汗で肌に張りついている。

「心配しなくても……遠くになんか行かないですよ」

涙をごしごし拭って言った。泣いてばっかりだ、私。

部長が私に近づくと、手を差し伸べてくる。

「佐波、ちょっとデートしよう」

彼は私の手を取り、駅の方向に歩きだした。駅までは近いので、あっという間に着いてしまう。

駅前のコーヒーショップに入った。二十二時まで営業の店内は、客もまばらだ。

禁煙席に並んで座る。私はアイスミルク、部長はアイスコーヒー。

「夜のコーヒーショップって、独特だと思わないか?」

彼がなんでこんなところに連れてきたのか、私にはまだわからない。ただ、オレンジの照明で涙の跡が目立たないように、目の周りを拭き直すだけだ。

「飲み屋も高い飯屋も、赤ん坊を連れていけるところじゃないよな。このコーヒーショップだって、禁煙席なのにタバコくさいし」

「はぁ」

言葉の意味を図りかねて、部長の顔を覗き込む。

「俺はな、この前のが本番じゃなくてよかったと思ってる」

「なんで……ゼンさんはポンちゃんに会いたくないんですか?」

「会いたい。でも俺たち、最近ようやくお互いの気持ちがわかっただろう。俺は、もう少しおまえとふたりきりで出かけたり、飯食ったりする時間が欲しい。だから今も陣痛が起こらないのは、ポンが気を利かせてくれてるのかなって都合よく考えてる」

部長は私のお腹を撫で、頬を緩めた。

「必然、デートもポンと三人なんだけどな」

ポンちゃんはモゾモゾしているけど、キックなんかの激しい反応は見せない。

「早く会いたいっていうのは、私のエゴですかね」

私もお腹を撫でてみる。大事な私の娘が入っているお腹。

「いや、普通だろ。俺だって、ポンには早く会いたい。自分の子どもってどんなもんだろうって、毎日想像するよ。どっちに似てるかなんて考えたら、今にも笑いだしそうになる」

部長は優しく微笑んだ。その笑顔は、今まで通りのイケメンスマイルではあるんだけど……なんだろう。安心感、包容力、不思議な充足。そんなものを感じる。

そっか、この人も着実に、父親になる準備をしているんだ。親として待つのも私ひとりじゃない。ふたり一緒なんだ。

「陣痛が来るまで、夜はあちこちデートしよう。ポンとは行けない店に行っとこう。とりあえず、明日は回らない寿司でも食い荒らしに行くか」

「太っちゃいますよ。私、あと一グラムも増えられないんですから!」

「日中、運動してるだろ。それで帳尻合わせろ」

「そんなぁ」

悲鳴を上げてみたものの、それは拒否ではない。

頼もしくて優しい一色褝という男。私、この人と結婚してよかった。

この人の赤ちゃんを産めるのが嬉しい。

「じゃ、お寿司の次は、江戸前の穴子天丼が食べたいです」

「言ったな?覚悟しろよ。明日は日曜日だから、どっちも行くからな」

私たちは顔を見合わせ、笑い合う。

ありがとう、ゼンさん。私の旦那さん。私はあなたの子どもを授かって幸せです。

 

その日は朝起きたとき、すでにお腹が張っていた。

ま、こんなことはよくある。本日は四十週六日、明日で予定日から一週間だ。

この一週間、部長と毎晩デートして、おいしいものを食べたり夜景を見に行ったりと楽しく過ごしていた。いっそ吹っ切れた一週間だった。

予定日超過だって、どっちみち四十一週になったら入院できるんだし。もういいや、そんな感じ。

そして今日、お腹がすんごい張る。さらに、痛い。

また前駆陣痛かもしれない。この一週間の間でだって二、三度あったけど、一時間くらいで治まっちゃったんだから。

部長は出勤したあとだ。私はのろのろ起きだして、キッチンで朝ごはんの準備をする。最近は寝不足なので、部長は自分で朝食を済ませてくれる。

インスタントのスープと、昨日の残りの温野菜、雑穀入りのパンで朝ごはんにした。

ポンちゃんはまるで動かないわけではないけど、控えめな胎動だ。お腹はやっぱり痛い。私は痛みを分析する。

痛いのはお腹?うーん、腰が痛い。そして、おしもが生理二日目くらいのノリで痛い。ジンジンするというか。そしてときに、ぎゅう~っと絞られるような痛み。

なんか、今までの前駆陣痛と違うぞ。今までは張りのついでに生理痛っぽい腹痛が来ていた。

あれ?これが本陣痛か?しかし、フライング受診経験者は、そんなことじゃもう動じません。どうせ、自然に陣痛来ないよ。これも前駆陣痛の一種だよ。

自分に言い聞かせ、洗濯をして、掃除機をかける。ときどき、ぎゅ~だかツーンだかの痛みを感じて動きを止めるけれど、たいした痛みじゃない。

家事を終えると、買い物とウォーキングを兼ねて出発。今日はマタニティビクススタジオが休みだから、自分で運動しなきゃ。おいしいものばかり食べているので、体重計から遠ざかっているし……。

遠くのスーパーにわざわざ行ったものの、やっぱりお腹が痛い。おしもの痛みがお腹全体に波及している感じ。

帰り道、試しに測ってみるけれど、痛みの間隔はバラバラだ。持続時間も十秒だったり、二、三秒だったり。

それが、帰宅して昼ごはんを食べる頃には、まとまってきた。十五分間隔。そして気づいた。痛みが増している。朝と比べて明らかに痛い。これは、今までの前駆陣痛ではなかったことだ。

おやおや~?そうめんをすすりながら考える。

お風呂入っとこうかな。このままお産になるなら……。いやいや、まだ決定打がないし。

昼食後、テレビを観ながらひと休みする。痛みは消えない。むしろ間隔が狭まり、十分近い間隔になっている。

さすがに私も、もうこれがお産に繋がると薄々気づき始めていた。

トイレに行って驚く。パンツの水分吸収シートに、どろっとした血液がついていた。おりものに混じったような鮮血だ!

「おっ、おしるしだ!」

思わずひとり叫ぶ私。

こりゃ、いよいよっぽい。ポンちゃんよ、ようやくその気になってきましたね!

お風呂を沸かし直す。もし本物なら、お風呂はお産が進んでいいって本に書いてあった。ウォーキングで汗もかいたし、入っておこう。

お風呂を上がると、間隔は十分ちょうどになっていた。

間違いない。ダウンロードした陣痛アプリで時間を追っても、やはり十分間隔。

十四時、産院に電話をした。

『それじゃ、入院準備をして、いらしてください』

今朝からの経過を話したところ、あっさり言われる。

うう、またこれで陣痛が遠のいたら嫌だなぁ。

洗濯物をしまい、家中に施錠をすると、入院バッグを確認して、部長に電話をしていないことに気づいた。

「ゼンさん、お仕事中すみません。陣痛が始まったようで、病院に行きます」

電話が繋がった途端、ささっと言う私。

いや、仕事中に私用電話はマズイでしょ?

『わかった』

部長の声は落ち着いていた。

『気をつけてタクシーで行け。また様子を教えてくれ』

「はーい、了解!」

超事務的に話を終えると、タクシーを呼んだ。

部長、もしかして今回も、産む産む詐欺(さぎ)だと思っているかな。おしるし来たって言えばよかったかな。

 

産院に到着すると、今日は休診日なので、裏口から通された。

入院扱いになるそうで、荷物は居室へ。着替えやお産セットも渡され、入院服みたいなものを着る。産褥パンツに産褥パッドのMサイズをつけてはく。

内診台の前には、助産師長の天地さんがいた。彼女が診てくれる様子だ。

「一色さん、子宮口開いてきてますよ。今、一センチくらい」

「本当ですか!?」

四十週六日、初めて目に見えるお産の進行キタ!!遅すぎるくらいだけど!

「これからお部屋で分娩監視装置をつけて、様子を見ていきましょうね。ま、ほぼ間違いなく、このままお産になるので、ご家族に連絡ね」

はい、お墨つきいただきました!イエーイ、決定打!

部屋でお腹に装置のベルトを巻かれると、即座にメッセージを送った。母と美保子さんへ。そして、部長にも状況説明のメッセージ。

【やっぱり今日、お産になるみたいです】

すぐに返信が来た。

【了解。業務終了次第、急行予定】

……その冷静さが、かえって彼の張り切りを感じさせる。

うう、でも、早く来てほしい。お腹は痛いし、心細いもんなぁ。

 

入院から一時間。正直、まだ私はワクワクしていた。

強くなる痛みに不安感はあるものの、これがポンちゃんに会える痛みなら、どんと来い!って感じ。

どうなるんだろう。これからどんな感動が待ち受けているんだろう。痛みの合間に空想して、うふふと笑ってしまう。

分娩監視装置を外されてからは、院内を行ったり来たりしてお産促進に励む。ベッドの柵につかまってワイドスクワットもする。枝先生に習ったもんね。

そんなことをしているうちに、十六時半。入院から二時間が経過し、陣痛は六、七分間隔に縮まっていた。

「順調じゃな~い?」

ひとりごとを言っていると、病室のドアが勢いよく開いた。

「おお、まだ産まれてないな」

「ゼンさん!」

部長だった。声や表情はいつもの落ち着いた彼だけれど、急いで来たのだろう。汗が頬を伝っている。

「どうだ?進行は?」

「順調に痛くなってますよ。これが陣痛か~って噛みしめてます」

部長は荷物を隅にドサドサ置くと、私の入院バッグを漁り、ペットボトルストローを取り出す。これは横向きでもペットボトルの水分が摂りやすいという優れ物で、私が産休に入るとき日笠さんにもらったのだ。

買ってきたスポーツドリンクにそれをセットして、私の手に持たせてくれる。

やっぱり、この人、やる気がみなぎっている……。

「あたたっ」

なんて思っているうちに痛みがやってきた。すかさず、私の腰を押す部長。

確かに『プレママさんが読む本』に、パパができる陣痛緩和マッサージっていうものが載っていた。

ベッドに座っている姿勢なので、押しづらいだろうに。すまんねぇ、褝くん。ありがたくマッサージをしてもらう。

くぅ~、割と痛くなってきてるぞ。生理痛マックスの痛みは、とうに超えている。瞬間的な痛みでいえば、お腹を壊したときの急激な刺し込みに似ている感じだ。でも、持続時間は三十秒ほどで終わってしまう。

「一色さん、どうかな~?」

天地さんが病室に顔を出した。

「今、六、七分?いや、五分間隔くらいです」

「結構痛いですか?」

「えー、まあまあ痛いです」

ちょっと強がってみる。だって、まだまだ痛くなるだろうし、今から騒げない。

「内診してみましょうかねぇ。移動できるかな?」

痛みの発作の合間は動けるので、内診室に移動する。ヨチヨチ急ぎながら台に乗った。だって、動いている最中に痛みが来たら嫌だもん。

「お、四センチかな。いいですよ」

「四センチですか……」

子宮口四センチ。実は、もっと開いているかと期待していた。だって、産まれるときって子宮口十センチでしょ?まだ半分も開いていないのに、この痛みって……。

そして、それだけ開くのにあと何時間、どれほどの痛みに耐えにゃあならんのかしら。

……軽い絶望を感じる私だった。

 

一時間半が経過し、十八時。

「痛ぁ~、は~」

「よしよし、腰押すからな」

ベッドで丸まって、部長のマッサージを受ける。陣痛発作を耐えるのに、座ってはいられなくなってきた。

間隔は三、四分。あまり進んでいないのに、痛みは立派に強くなってきている。

なにこれ?陣痛って、こんなに痛いの?そろそろ『どんな感動が待ち受けているんだろう?』っていうワクワク感がしぼんできた。

さらに二時間後、私はベッドに四つん這いになって呻いていた。いや、怒鳴っていた。

「いいったああああっ!うううっ!」

もう横になってなんかいられない。楽な姿勢が見つからない。陣痛の痛みに耐えられる姿勢がわからない!どうすりゃいいわけ?こんなに痛いのに!

陣痛の間隔はさらに狭まり、二、三分。

ここに来てわかったことがある。陣痛の発作持続時間はすでに一分近く。そして次の陣痛までのお休みは必然、一、二分。

痛みに比べて、休み時間が少ないっ!なによ、こんなのひどい!

部長は変わらず腰を押してくれたり、骨盤を押してくれたりするんだけど、あんまり効かなくなっている。

ビミョ~に違うのよ、的が。って、こんなこと、頑張って押してくれている彼には言えない。

もう!痛いっ!やめたいっ!!

「一色さん、様子を見に来ました」

この冷静極まりない声。顔だけ向けると、そこにはメガネっ子助産師、時田さんの姿があった。

ご縁があるのは嬉しいんだけど、今それどころじゃないんだよね。

「ご主人、お疲れでしょう。交代します」

有無を言わせない迫力で部長をどかすと、時田さんはグリグリと私のお尻の骨を押した。

「おわっ!」

思わず叫ぶ私。すごい。痛みが二、三割、ううん、三、四割減。魔法だ!魔法使いが、ここにいた!

「一色さん、だいぶいい陣痛が来てますね。LDRに移動しましょうか」

え、あのLDRに?

陣痛から分娩と、その後の休息まで過ごす部屋をLDRというんだけれど。私の想像だと、もう少し早く移動なのかと思っていた。

このタイミングで?今現在、めちゃくちゃ痛いけど?

「車椅子とかで?」

「近いです。歩きますよ」

あっさりとしたご返答。『なに言ってんだ、こいつ』くらいの口調だ。

鬼!鬼巨乳メガネっ子!心の中で無駄にののしってみる。

陣痛が治まった瞬間に、えいやっとベッドから下りた。部長と時田さんに支えられつつ、歩く。もう一歩一歩が身体中に響いて痛い。

どうにかLDRへ到着し、ベッドに這い上がろうとしたら、キタッ!陣痛キタァーッ!いーったぁーっ!

ベッドに掴まりうずくまる。すかさず近寄ろうとした部長を押さえ、時田さんが進み出た。

「はい、痛いですね」

グリグリとお尻を押されると、本当すごく楽!ありがたい!けど、時田さん、感情こもらなさすぎ!

「ううー、ううっんっ!」

「ああ、いきみたい感じも出てますね。でも、まだいきまないでください」

「いきむなとか……わかんないんですけど……」

「最後に排便時のように力を入れないでくださいということです。九ヵ月目の両親学級でお話ししましたよ」

「そういえば、聞いたぞ。産道が鬱血して、赤ん坊が出づらくなるって!いきんじゃダメだ!」

部長は真剣に聞いていた両親学級。私は二度目だからって、半分くらい流し聞きしていたよ!どうも、不真面目ですみません!

ああっ、でも美保子さんも、このいきみを我慢するのがつらかったって言っていた。

今、理解するあの言葉の真実。

「内診しましょう」

ベッドに乗ると即、膝を山型に立てられ、足を割られる。産褥パンツのクロッチをびりっと剥がされ、おしものチェック。

部長がいるところでは初だけど、余裕がなくて恥ずかしくも感じられない。

「あたたたたっ!時田さん!痛いっ!」

内診もバカみたいに痛い。陣痛で過敏になっているせいか、陣痛と重なっているのか、とにかく痛い。

「痛い、痛い~!ううーんっ!!」

「いきんじゃダメですってば。子宮口が陣痛発作時で八センチ開いています。赤ちゃんの入っている胎胞も下りてきています。もう少しですね」

手袋を外しながら、時田さんは相変わらず冷静だ。

騒ぐ私の頭をよしよしと撫でてくれる部長。嬉しいんだけど、痛すぎて感謝もねぎらいも出てこない。

「ああ~、もうやめたいよ~っ!痛い~!」

「頑張れ!ポンも頑張ってるぞ!」

「それはそうなんですけど~っ!ううーっ、痛いーっ!ううっん!」

「一色さん、いきみ逃しの呼吸法を思い出してくださいね」

お尻をグリグリ押しながら、時田さんが言う。

「忘れちゃったよ、そんなの~!」

「ふーと長く吐いて、最後に、うんと軽く息をつきます。ここで、少しだけ力を入れて結構です」

そういえば、そんなことを言われたような。ヒッヒッフーという有名なあれじゃないんだと思った記憶があるような……。

「ふーぅぅぅ、うんっ!」

「そうです。最後はもう少し軽く」

「無理言わないで!これが限界!」

ややキレ気味に返してしまう。

だってさぁ、そんな冷静に、無味乾燥に言われてもさぁ!

「痛いんだってば!時田さんは産んだことあるの!?」

ついに八つ当たりする始末。

「いえ、私は昨年就職したばかりですので、結婚もまだです」

「じゃあ、めちゃめちゃ痛いって、わかんないじゃないですかあっ!」

時田さんはメガネを人差し指で押し上げて、優等生のように答える。

「お言葉ですが、私はいつか来る自分の出産の前に、何百人ものお産に立ち会います。散々人が苦しむ姿を見てから産む私のほうが、悲惨だとは思いませんか?」

「だから、なんでそう冷静に分析するかなぁ~!痛っ、痛ああああっ!」

「はい、呼吸法ですよ。一色さん」

ちなみにこの女たちのやり取りを、部長はじっと見守っていました。またひとつ私の本性がバレた。いつかきっとネタにされる。

何時間経っただろう。お産がこれほど苦しいとは。

お腹が、おしもが、腰が、かち割れそうに痛い。でっかい鬼が素手で私の下半身を叩き割ろうとしているって感じ。内臓まで全部痛い。

 

二十一時過ぎに、両親が病院に到着した。顔を見ても喋る余裕がなかった。

部長が応対してくれ、おののく父と、訳知り顔でガッツポーズを見せる母を病室に案内してくれた。

「ううー、来たー、痛いーっ!」

飛んで戻ってきた部長が手を握ってくれる。マッサージは時田さんに任せ、私の汗を拭いたり、こうして手を握って陣痛の波を支えてくれたりする。

「ゼンさん……痛いでしょ?手、もういいですよ」

私が何時間も死ぬ気でしがみつくから、彼の腕だってバキバキに張っているはずだ。

「気にするな。おまえの痛みと比べたら楽だ」

「無痛にすればよかった」

思わず、今さらどうにもならない泣きごとが漏れる。ゼンさんが慈愛の微笑みを見せる。

「じゃ、ふたり目はそうしよう」

「痛すぎて考える余裕ない~。ゼンさん、痛いよぅ」

「頑張れとしか言えなくてすまん。でも、ポンのためにも耐えてくれ」

「……はい」

このあたりが、本日最後の夫婦らしい会話だった。

 

二十二時半。LDRに移動して二時間少々。入院して八時間。

私のお産の進行が止まった。子宮口は八センチのまま二時間が経過。同じ痛みに苦しみっぱなし。

この時点でようやく、医師の銀縁メガネ先生こと佐藤先生が現れた。

「一色さん、お産、いいところまで進んでますよ~」

「そうですか!?いつまで私、いきむの我慢するんですか!?」

陣痛の合間に、ここぞとばかりに怒鳴る。銀縁先生が、あははと陽気に笑った。

「あー、さすが!運動してただけあって、まだまだ体力ありますねぇ。赤ちゃんもですよ。全然心拍落ちてない。ふたりとも余力がありそうですね」

私はなにかしらの反論をしかけて、また陣痛の発作に呻いた。

くそう!貴重な休み時間を、銀縁先生との会話に使っちまった!

私の陣痛が治まるのを待って、再び先生が口を開く。

「で、今ですね、お産の進行がちょっとスローになってます。子宮口がもう少し開いてきたら、いきんで赤ちゃんを押し出す段階に行けるんですよ。そこで、おふたりの余力があるうちに提案です。人工破膜といって、僕のほうで破水させます。これで、ぐーっと陣痛が強くなる可能性が高い」

「やってください」

若干、食い気味に私は言った。

「それでもこの状態が長く続くようなら、促進剤を考えましょう」

「はい、なんでもやってください。ついでに会陰切開も必要ならぜひやってください」

もう、なんでもいいからこの痛みを終わらせたい。密かにやっていた会陰マッサージとか、どうでもいい。すぐにこの激痛とグッバイできるなら、どこを切ってもらっても構わない。これほど痛いとか知らないし、もう無理だし、これ以上、拷問が続いたらおかしくなっちゃう気がするし!

ベッドが分娩台に変形していく。足載せの台ができ、背もたれにカーブがつく。私は足先から膝までビニールを被せられた。

あ、本で見たお産の姿勢だ。なんて思っていたら、銀縁先生の声がかかり、おしもになにかの処置がされる。さあっと、おしもからお尻にかけて熱いお湯が流れだした。

あ、これが羊水(ようすい)。ポンちゃんがプカプカ浮いていた羊水が出た。あったかくて、たくさんの羊水……。

次の瞬間、訪れた陣痛に私は叫びを上げた。

「いいい、いったああああああっい!!」

それは、今までの陣痛がすべて茶番だったと言えるほどの痛みだった。これまでは呻くことができた。でも、今はほとばしる絶叫を抑えきれない。

「うわああああああっ!!痛あああああいっ!!」

最後の一音まで、力の限り叫んでしまう。私の豹変にたぶん部長はビビッている。それでも、私の手を放さないでいてくれる。

「あ、一色さん、開いてきましたよ。子宮口全開大」

銀縁先生が言う。時田さんが私の手を部長からもぎ取り、ささっと分娩台のレバーに移す。

「一色さん、次の陣痛の波が来たら、いきんでみましょう」

いきめ?もう我慢しなくていいのね!?

「って、今さら、いきみ方なんて忘れちゃったよぉっ!!っててて、うわああああっ!!痛いっ!!痛いいいいいいいいっ!!」

「口は閉じて、外に叫ぶエネルギーをいきみに変えましょう。お腹を覗き込んで、おしもを中心に力を入れます。合間は深く呼吸して、赤ちゃんに酸素を送ってあげるんですよ」

いっぺんにいろいろ言わないで!もう、パニック。痛すぎて死ぬ死ぬ死ぬ死ぬーっ!!

と考える間もない。陣痛は一、二分間隔になり、波が一分以上来るので、休みはほぼないのだ。

「一色さん、口閉じて。はい、うーーーん!」

「ふ、うーーーーーーーーーんっ!」

「はい、もう一回!」

「うーーーーーーーうああああっ!!痛いいいいっ!!」

「いいですよ。その調子」

痛くても死にそうでも、もうどこにも逃げられない。ポンちゃんを産み落とすまで、この悪夢から逃れられない。

私は分娩台の上でいきみ続け、痛みで首をぶんぶん振りまくり、足をガンガン足台に振り下ろした。

陣痛の合間に束の間、意識が遠のく。それは不思議な感覚だった。

私はものすごく短く眠っているのだ。夢も見ている。それは、つわりで病院に連れてこられたときに見た夢と似ていた。

ゆらゆらする世界。海の底。オレンジ色の光。温かくて心地よくて、その一瞬だけが天国のようだった。

すぐに、鬼に身体を八つ裂きにされるような痛みで、現実に引き戻される。いきんで、半分叫んで、また頭をぶんぶん振った。

時間にすれば一時間半くらいだったらしい。でも、この時間の長さは、その百倍くらいの体感を私に与えた。

 

「一色さん、頭が見えましたよ!」

日付が変わった頃だ。時田さんが足元で言った。

その時分の私は時間の感覚もなくなり、ただ無限地獄と化したいきみをルーティンワークのようにこなしていた。

もうひとりの助産師さんが、銀縁先生を呼びに行く。

「もう一回いきみましょう。吸って、はい、うーーーーん!」

「うーーーーーーーーん!うああああっっ!!」

「もう少し長くいきんでみましょう。ご主人、こちらに来てくださっていいですよ」

部長が私のおしものほうに回る。もう、恥ずかしいとかどうでもいい。死ぬほど痛い。っていうか、このままじゃ死んじゃう。

ん?待って?頭が見えたって言っていたよね。頭が見えたなら、あと少しなんじゃなかろうか!!痛いのも苦しいのも、終わりにできる!!そうに違いない!!

最後の力を振り絞って、息を吸い込んだ。すさまじい陣痛の波が来る。それに合わせて全力でいきんだ。

なにかが頭の奥で弾けた。

「一色さん、もういきまなくていいです!はっはっはっと短く呼吸して!」

私は指示された通りに、夢中で呼吸する。

銀縁先生が入ってきた。急いで、私のおしも側に回る。

「赤ちゃん出ますよー」

その言葉とともに、ずるずるずるっと身体からなにかが抜け落ちた。

え?今のって?

「佐波!ポンが出たぞ!」

部長の声。足の間に見えたのは、紫色の血まみれの……ポンちゃん?

でも、ポンちゃんは動いていない。時田さんの腕にもたれて、紫色のまま動かない。

「先生!!泣かないんですか!?」

私は必死に叫んだ。

ポンちゃんが泣かない。産まれたての赤ちゃんは泣くんでしょう?それに、ポンちゃんはいつまでも血の気がない!

「あ、大丈夫。羊水飲んじゃってるんですよ」

先生は言いながら、ポンちゃんの口にホースみたいなものを入れて、慣れた様子で吸引。すると、ポンちゃんが顔をぎゅっと歪めた。

「おああああああっ」

次の瞬間、ポンちゃんの産声が聞こえた。紫だった肌は、見る間に健康な色になる。

ポンちゃんが……産まれた。

へその緒をつけたままのポンちゃんが、時田さんの手により、私のお腹にどすんと載せられた。

「可愛い女の子ですね。握手してあげてください」

泣くポンちゃんの手を、ぎゅっと握る。次に部長も握る。そのときには、すでに部長の両目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。

ポンちゃんを見つめる。

十ヵ月間ひとつの身体で過ごしてきた命が、今、ひとりの人間として目の前にいる。

ポンちゃんは想像していたより、ずっとムッチリしていた。4Dエコーで美人だと思っていたのに、猿みたいな顔だ。一重だし、鼻もぺちゃんこ。

時田さん、言うほど可愛くないよ?

でも、不思議。このブサイクな泣き顔が、世界で一番愛おしく思えるよ。

「会いたかったよ、ポンちゃん……」

私の目からも、自然と涙がこぼれていた。

「よく来たね。ありがとう」

私の言葉に耐えきれず、部長が嗚咽する。

ポンちゃんはいつの間にか泣きやんで、きょとんと私たちを見ていた。

それからへその緒カットがあり、部長は号泣しながらその大役を務めた。

ポンちゃんは身体を拭いてもらったり、計測があったりして隣の部屋に連れていかれ、私は後産、つまり胎盤を産み出し、お産を終えた。

ポンちゃんが産まれた喜びと同時に、確かにある感情。それは、『痛いのが終わった!!』ってことだった。

正直、これほど痛くなければ、もっと感動的だったんじゃなかろうかと思う。それほど衝撃的な痛みだった。ふたり目は……しばらくいらない……。そのくらいですわ。

すると足元で銀縁先生が言う。

「じゃ、縫いますからね~」

「はい?」

「会陰、切りましたから。縫っときます。融ける糸なんで抜糸はありませんからね」

え!?いつの間に切っていたの?そういえば、切りますよ~的なことを言われた気もするけれど、痛すぎてあまり考えずに返事したような。

チクチクと確実に針を刺される感触がする。はっきり言って痛い。

「あの、麻酔とかしないんですか?」

「してますよ。でも、お産のあとで過敏になってますからね。痛くないとは言わないです」

うう、痛いの終わってなかった……。

紛らわすためにも、頭上の画面に映るポンちゃんの処置を見守る。

ポンちゃんは泣きやんで、ぽけっととぼけた顔でメジャーを巻きつけられている。

「可愛いな」

部長は泣き腫らした目で、画面のポンちゃんを見守っている。

「想像以上にムチッとしてますけどね」

すると、計測室で看護師が声を上げるのが聞こえた。

「体重、三千五百十グラムです!」

「おお、一色さんの体格だと大物だったねぇ」

銀縁先生が縫いながら、呑気に笑った。

うん、大きいと思ったよ。だって、新生児ってもっとふにゃふにゃだよね。ポンちゃんはがっちりしてるもん。

私もポンちゃんも処置が終わり、ついにカンガルーケア!オムツ姿のポンちゃんが私の腕の中にやってきた。

初めての抱っこだ。おそるおそる、小さな身体を抱きしめる。

あったかい。柔らかい。なんだろう。この感触だけですべてが満たされる。

ポンちゃんは私の鎖骨に顔を押しつけ、鼻をふんかふんかしている。

「おっぱいをあげてみましょうか」

時田さんが言い、私はなんの躊躇もなくハーフトップを真ん中から押し下げた。たぶん部長のほうが驚いたと思う。

乳首を当てがうと、ポンちゃんは口をパカッと開けて必死に吸いついてきた。

まだろくに出ないおっぱい。根元を押してみると、少しだけオレンジ色の初乳が出た。ポンちゃんはそれを必死に吸っている。

「可愛い……」

「ああ、可愛いなぁ」

私たちはしばしその姿に見入る。世の中に、これほど幸福で穏やかな光景があったとは思わなかった。デートであちこち夜景を見たけれど、そんなのよりずっと綺麗で感動的だ。

「佐波、本当にお疲れさま。ありがとう、ポンを産んでくれて」

「すっっっっごい痛かったですけどね!」

「あんまり役に立てなかったな。……すまん」

「もう!ゼンさんがいてくれたから産めたんですってば!」

今まで見せていた醜態を思い出し、苦笑い。

部長が私の頭を撫でた。そして、変な顔をする。

「佐波、おまえ熱いぞ!熱がある!」

慌てて時田さんを呼ぶ彼。

言われてみれば身体中、熱い気はする。お産で頑張ったせいかと思っていた。

「大丈夫です」

言いながら体温計を渡してくれる時田さん。

「産後はお熱が上がるものです。赤ちゃんの体温を守るためだと言われています」

熱は三十八度だった。なるほどね~、人間ってうまくできているね~。

おっぱいを吸うのに疲れたポンちゃんは、私の胸に頬を押しつけている。

「あーあ、うー」

可愛い声でなにか喋っている。産まれて一時間くらいなのに、自分の意思で言葉を発している。

可愛い!こんなにお猿みたいなのに、可愛すぎて胸がぎゅーってなる!

部長もまったく同感らしく、ポンちゃんの手を握っては、顔を覗き込み、目を再び潤ませていた。

 

産後二時間が経過し、私は部長とポンちゃんと病室に戻った。

ん?病室のソファで、ぐーぐー寝ているのは……うちの両親だった。

「悪い……産まれたときに起こしに来ればよかった……」

「いーえ、きっと起こしに来ても起きませんでしたよ」

私が言うと、私の車椅子を押していた時田さんが裏付け証言。

「看護師がお声がけしたそうですが、よくお眠りになられていたので、無理して起こせなかったと言っていました」

ほらね!そんなもんよ、うちの能天気な両親は!

「おとーさん、おかーさん!産まれたよ!」

ふたりがむにゃむにゃ起きだして初孫に対面したのは、数分後だった。

 

こうして、私の出産の大きな課程は終わった。

ポンちゃんを身ごもって、一度は堕胎を考えた。ひとりで育てることも考えた。

でも今、ベストと思われる環境でポンちゃんをお迎えすることができた。

ポンちゃん、よく来たね。私がママで本当にいい?

眠るポンちゃんを見つめる。

人生最高の幸せを感じる。母親になる幸せ。

七月二十五日、〇時二十五分。四十一週〇日。五十センチ、三千五百十グラムの女児を出産。

一色佐波、二十八歳。無事母になりました!

「ご懐妊!!3~愛は続くよ、どこまでも~」はコチラから

この記事のキュレーター

砂川雨路
新潟県出身、東京都在住。著書に、『クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした』(ベリーズ文庫)『僕らの空は群青色』『ご懐妊‼』(スターツ出版文庫)などがある。現在、小説サイト『Berry’s Cafe』『ノベマ!』にて執筆活動中。

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